【ケア編】人を傷つけるというのはどういうことか | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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悪さしながら男なら 粋で優しい馬鹿でいろ

 

傷つくのが怖い人へ。傷つくのがバカバカしくなる思考法

大体傷つける人は、相手構わず傷つけている。病んでいるのは相手で、その相手が吐いた毒で自分が病んでいる場合じゃない……というふうに。人を思いやれない人のために、自分が“傷つかないための人生”を送るなんておかしくないか? そう考えてみるのだ。

ともかく本気で怒れば、必ず損をし、すごすごと胸で受け止めれば傷になる。どちらもやってはいけない。考えることは、毒を体の外に出していくこと。その分、傷は浅くなり、治りも早く、ストレスは激減する。だから毒を胸で受け止めず、すぐ頭に持っていき、考えをまとめて頭から上に抜いていく。必ず楽になるはずだ。そうやって耐性が高まれば、言葉の毒など、鼻であしらえるようになるはずだ。そもそもが傷つくことなんて、蚊に刺された程度のモノに過ぎないのだから。

 

 そういえば2012年の衆議院選挙の選挙運動の最終日に、同じ駅で最後の落穂ひろい、すなわち選挙運動は午後八時までしかできないが、以降は肉声で戦うときだった。そのとき、我が陣営の民主党の女性秘書が、自民党の口の悪い区議に罵られて頭に来て、めちゃめちゃ反論して叫んでたな。

 

いちいち真に受けるなと制止したが彼女は我慢できなかったようで、その自民党区議とずっと揉めてた。自信があれば必要ないことだ。余裕をもって選挙運動では、敵に配慮したらいいのにと思った。ただ、女性であるから彼女の意向を優先した。昔は女性に選挙権すら与えられなかったのだから、彼女がそうした市川房枝志向をもっていなくても、彼女が頑張るように敵対政治勢力に対して吠えさせるのも民主主義の一つだと考え、その時はそのような判断を下し、彼女の思うようにさせた。今も異論もないし、事実として相違ない。

 

ただ、ここには男女の差別は関係ない。人間として考えるべき内容だ。傷つくのを恐れないということは、傷を受けることをしないということだよ。傷を受けるか受けないかは自分が決めることだ。これが肉体的戦闘と大きく違うところ。

 

もはや戦国時代でもなければ、明治維新のように革命を起こすことも必要ないし、戦時中のように五・一五事件や二・二六事件を起こす必要もない。だから政治理念での戦いでしかない。私はてめえの親分に政治理念がないにしても、俺にはあるから、自信には満ち溢れている。ただ、てめえの食い扶持のために議席を維持しないと失業してしまうという輩についてはハッキリ言ってどうでもいいと思っている。政治で食うことは社会にとって最低限なことではないから、てめえが生きていきたいのならば、それぞれの仕事をすればいいんじゃないか?

 

ただし、どのような状況が起きていもいいように日々、体を鍛えている。それは武力革命とは直接関係ないと思いながら私はやりましょう。なにしろ、どれだけ体を鍛えようとも、それになす術もない軍事技術はいくらでもあるのだから、この世はドラゴンボールでもなければ北斗の拳でもない。よって、体を鍛えて、敵勢力を倒すことなど無意味である。というように考えにより、かつては銃剣道、短剣道、剣道、居合道、合気道などをやり段位を得たりもした。

 

そこで得られたものというのは、武術をやって得る経験であり、疑似戦闘において傷つけられた経験だ。これによって人を傷つけてはいけないことを知り、傷つける経験も同じ。肉体的にはそうであるが精神的にはもっと大きい。

 

己が精神的に傷つけられても丈夫なように、他人が傷つけられたそれを思うように、そうしなければ、みんなが苦しむことになる。それを除外するのが政治だろうに。

 

なんでこれを思い出したかっつーと、いつも政治談議をしている渋谷区の友人が、酒のつまみを作るにあたって包丁を使って年がら年中さ、指を切って出血しているからよ。

 

俺はどれだけ酔っぱらってもそんなことはしないぞ。ケンちゃんよ。