2013.08.27 裏切りと裏切られ | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

悪さしながら男なら 粋で優しい馬鹿でいろ

優れた政治家や経営者に共通するのは、裏切られ強いというところがある。もし、裏切られてビービー騒ぐ政治家がいたとしたらそれは大した器ではない。

 

政治の世界では裏切りは日常茶飯事であるが、勿論、裏切ったほうはいずれ消えて行くというわけでもない。正義は必ず勝つとも限らない。ただし、裏切られたことにより消えていく者は、裏切られたことに怨念を抱いて消えて行く。

 

裏切られ強くなるコツは、自分の欲求を相手に押し付けないこと。してあげることを優先し、してもらうことは求めない。してもらうことがその人から少なかったり、なかったとしても、どっかからか必ず得るものがやってくるからである。

 

以下は恋愛じみているが政治にも活用の余地があるので引用。

 

恋人を信頼できず、携帯電話を盗み見たり、いちいち怪しい行動を問いつめたりしてしまう人は、「いっさいの疑念が払拭できれば、信じることができる」と考えているのかもしれません。

 

「信じるために、疑う」という矛盾することをしているわけです。

 

しかし、他人を疑えば疑うほど、「巧妙にごまかしているのではないか」と、ますます疑いは強まってしまうものです。

 

「他人を信じたいが、裏切られるのが怖い」と悩んでいる人にとっての「信じる」ということは、「相手が自分の思い通りになることを要求する」ことにすぎないのです。

 

「他人に振り回されてばかりいる」というのは、実は、「他人を思い通りにしようとする自分の利己心に振り回されている」のです。

 

「私は相手のために尽くしてきたのに、裏切られた」と嘆く人は、「私だけが犠牲になって、損をした」と思っているのでしょう。

相手の言うことは何でもきいてあげたし、喜ぶことは何でもしてあげた……。しかし、そもそも「そうしてまでも相手に好かれようとした」のは自分です。

 

「してあげたこと」が、相手を思いやる優しさからではなく、自分が好かれるための手段にすぎなかったから、報われなければただの骨折り損だとしか思えないのです。

 

相手に傷つけられる前に、「私は、そこまで自分を犠牲にしなければ相手に受け入れてもらえない人間である」と、自分で自分をおとしめていたのです。

 

また、「相手が〜してくれなかった」と嘆く人は、そもそも、相手を「自分にとって役に立つ人間か、どうか」という目でしか見ていなかったのです。

 

相手に裏切られる前に、自分も相手をあなどっていたのですから、文句は言えません。

 

本当に他人を「信じる」ということは、自分の利害を離れて、相手の心と向き合い、相手がどういう人間であるかを理解するということです。

 

心から信じれば、だまされることはありません。信じれば信じるほど、相手の嘘を見抜けるようになります。

 

いえ、「嘘を見抜く」などといういやらしい言い方をしなくても、他人の心とまっすぐに向き合えば、嘘は自然に見えるようになるのです。

 

「相手が信頼できる人間か、どうか」ということは、相手の人間性のみによって決まるものではなく、自分との関係の中でつくられていくものです。

 

他人を心から信頼すれば、相手はそれに応えようとします。

 

他人を疑えば疑うほど、相手は自分を裏切るようになります。

 

自分が信じることによって、本当に信頼し合える関係を築くことができるのです。

 

もともとだますつもりで近づいてきた人でも、心から信頼されれば、たいていの場合は、「この信頼を裏切るわけにはいかない」と思い、心を改めるか、そっと離れていくことでしょう。

 

中には、それでもだまそうとする心ない人間もいるかもしれませんが、そんなちっぽけな人間のできることなど、たかが知れています。

 

こちらから何かを押しつけたり、相手に要求したりしなければ、何も失うものはないのです。

 

孔子は、「論語」の中で、「他人が自分を判ってくれないことを気にかけないで、自分が他人を理解していないことを気にしなさい」と言っています。

 

他人に裏切られてしまうのは、相手を理解しようともせず、自分を押しつけてしまうからです。

 

信頼は、まず相手を理解することからはじまります。

 

「裏切られるのが怖いから、他人を信じられない」というのは、間違っています。

 

信じる人は騙されないのです。

 

 

自民党の総裁選挙は裏切りと裏切られの連続だ。そして裏切った者が再びまた自分に協力することがある。昨日の敵は今日の友も、今日の敵は明日の友も、なんだってありうる。ようは国民の利益にその行為が与しているかどうかで判断すべきであって、個人の怨念や個人の報恩を優先すべきではない。