日本国憲法第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」というのがあるが、少なくとも私は、この総意の中で了承していいかどうかを聞かれたことはない。
また、憲法が制定された当時の国民においても、特段、国民投票をやったわけでもない。
よく保守・右翼の立場の人々が、日本が気に入らないのであれば日本から出て行けとよく言われるが、言ってみれば、この憲法の規定である総意であることを追認しないと日本国民としていけないということにもなる。
ところで、なぜみな憲法というものにこだわるのであろうか。憲法というものは、守られていないことが多々あるが、罰則はないので見過ごされていることはたくさんある。憲法は守ろうが、改定しようがあまり関係ないのである。
政治の横暴を抑制するために憲法は存在するというが、そもそも憲法は政治的意図によってできているから、法が支配しているのではなく、憲法を作った政治力によって支配されているのであって、決して法が支配しているわけではない。あくまでも人が支配している。
ナチスドイツでは全権委任法というものがあった。ヒトラー政府に立法権を委任するという法律である。これは法によって支配していつつも、法は人に支配されているというわかりやすい法律である。
しかし、全権委任法に限らず、全ての法律は、当時立法した人々によってできているのであって、政治はどこまでいっても、法が支配しているのではなく、政治が支配しているのである。
今から13年ほど前、とある市議補選でボランティアをし、その祝勝会で、候補者の出身大学の同窓生と恩師による会合があり、私はその中央大学とは全く関係ないのであるが勝手に突っ込んでいった。
その大学教授は法学部政治学科の専攻であるのだが、なぜ政治学科というのは必ず法学部の下にあるのか。政治が法を動かしている以上、法の下に政治があるのはおかしいと言ったところ、その先生も深く賛同し、それがその先生の持論であったという。
法による支配があれば安心というのは、みせかけだけのごまかしである。結局のところ、政治による私意的判断によって法律ができているのである。
現在、安倍内閣では集団的自衛権の解釈ないし運用をめぐって討議がなされているが、国の危機が到来した場合、こうした議論はいっさい無駄になる。そのときに政治がどう判断するかが大事なのであって、事前に用意しているとそれに拘束され、俊敏な危機管理対応というものはできなくなる。
実際問題に存在しない事例をとりあげて、あれこれ議論したところで何の意味があるか。あらゆる稽古でも型ひとつにとらわれて練習しているとそれ以外ができなくなる。芸術の場合などはそれでもよいが、こと武道となると、これまでにないことを必要に迫られて自然に発するものがもっとも効力を発揮する。
中曽根内閣の時代に伊豆諸島で噴火があったが、これは超法規的措置といわれた。また、地下鉄サリン事件でも、憲法違反とも思われる化学兵器研究部隊が出動したが、これについては何のおとがめもなかった。
大事な方があるとするのならば、それは聖徳太子の十七条憲法によるあつく三宝を敬えの法のようなものだろう。それは仏教が正しいということではなくて、神に通じる自然界の法があって、それにしたがうことが良き政治をなすということである。
天皇にしても、他国の王にしても、王権神授説というのは古代からあり、そのために王がいたので、王は神にもっとも近い存在として統治されてきたが、王家も代々続くと腐敗して革命を呼び、議会政治が生まれ法の支配が誕生する。
しかしその議会政治が腐敗していれば、法の支配もくそもない。