憲法改正はまず自由に国民が決めること | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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放送大学教養学部(情報コース)1年生。国土交通モノの職業は海と空以外は制覇。運輸・不動産・土木建設業、国土交通副大臣秘書。武力治安系は暴対防止、保安警備業、消防団員、国家公安委員長秘書。自由な経済、公正な政治、ケアのある社会を作るための国政報告を勝手にやる。

 

 

 

立憲民主党は、立憲を名乗りながら、憲法審査会での審議を渋っている。その理由は、先の政治資金問題が明らかにならないからだとしているが、なんにつけても審議をしたくない、憲法改正をしたくないという構えがある。それは党内の意見がまとまっていないからでもあるから、仕方ないことだろう。しかし、永遠にまとまらないと思う。

 

 

一方で、自民党側も憲法改正は「やるやる」と言って全くなされていない。改憲の姿勢さえ見せていれば、支持が得られるが、実際に憲法改正をしてしまったらヤバイと思っているのかもしれない。

 

ただ、日本国憲法というのは、戦前の大日本帝国憲法も含めて、ほとんど守られていないということがあることに注意しなければならない。

 

憲法が他の法律と違い、国の基本法であり、国の権力をけん制するものであるとされている。だがそうはなっていない。

 

憲法ではいろいろと規範を規定しながら、守られていないことは山ほどある。

9条で戦力の不保持を言いながらの自衛隊、残虐な刑罰を禁止しての死刑制度の存続については、各々に違憲かどうか賛否両論があるとしても、他に明確な憲法違反はあちらこちらにある。

 

まず、法律を作るのは国会の任務としながら、実際はそのほとんどは内閣が作っている。英国でも閣法が基本ではあるものの、これはハッキリとさせるべきだ。この論理で行けば、裁判所にも法案提出権があると拡大解釈できる。また、私学助成を憲法では禁止しているが、実際にはどんどんやっている。憲法を守れという共産党は、各地方自治体議会で共産党所属議員が私学助成を要望することはしきりである。

 

また、天皇の職務は憲法で定められた以上のことをしている。外国の大使・公使の接受は認められているが、各国の元首や国賓を接受することは書いていない。天皇はこの憲法で定められた国事行為以外はしてはならないとされているが、遥かに超えている。

さらには「国会議員の総選挙の施行を公示すること」などと書いてあるが、衆議院に総選挙はあっても参議院にはない。

 

95条では、「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」となっているが、そんなことは一度もしたことがない。学者の解釈によれば、その自治体に有利なものであるならば住民投票は不要というわけだが、そんなことはどこにも書いていない。

 

そしてなによりも、日本国憲法は日本語としておかしいのである。米国による押しつけ憲法と言われても仕方のないほどの文章である。よって、文言・文法上も解釈によっていかようにもできるので無視したり解釈改憲によって都合のいいようにしたりすることはどれだけでも可能だ。文章の内容がどれだけ美しくあったとしても、芸術的要素は足かせになることもある。芸術性を考えるのならば音楽や絵画や舞台で表現すべきだ。法というものはそういう価値では運ばない。文学的な条文にしてしまうと、さまざまな人がさまざまな読み方をしてしまい、解釈をめぐって対立が生まれてしまう。そうなると意味をなさなくなる。解釈改憲がなされると法律を超えた法としての力は発揮されないゆえ、誰をも幸福にしない。平行線議論を呼んでしまうだけだ。

 

これら、憲法無視の姿勢は日本国憲法時代だけの話ではない。

旧憲法即ち明治憲法においても議会制民主主義や言論の自由が保障されながらいっさい破られている。順法精神豊かな日本人は、なぜか抽象的な規定である憲法に関してだけは守らない風習がある。これは日本人というよりも国家権力は憲法に従わない習性を物語っているからだ。

 

この国が生きていくためには戦争を避けること、豊かに生活できることである。

 

憲法が、平和や経済の安定という政策に優先することはない。

憲法が平和や豊な暮らしをつくるのではない。スローガンだけで人々は幸せにはならない。

 

憲法などという紙に書かれたものをいじくるよりも実質的な立法や行政が大事なのではないか。

 

国会議員には憲法尊重擁護義務がありながら、その憲法自体を変える発議権を持っているのも不思議な話だ。学者の間では、それを法理論があるとして合法としてとらえているが、国民の感情からするとわけがわからないと思う。

 

法学を学んだものでなければ理解できないといって学者にとってなんらかの法理論があるのなら、それは国民にとってわかりづらく、生活には即していない。

 

考えてみれば、憲法は権力を抑制するために存在するものなのに、その力は発揮されていない。自衛隊は合憲だとする意見が大勢を占めるようなことになっているが、それは読み方、現実に即した解釈によって、読み替えられているのではないか。

 

となると、憲法で軍事的にいかなる規定をしようともやはり時の政権は都合のいいように解釈するだろう。何しろ憲法を守らないのが、国家権力を握った政治家・官僚だからである。憲法は権力を抑制する力を持っていないのは歴史が明確に示している。9条をさらに厳しくして自衛隊の存在を認めないくらいのことを書き込んだところで軍隊は作られるし、9条で自衛隊を軍隊としたところで、非武装中立は可能である。文言にこだわって、実質を失うことがあってはならない。

 

かつて左派系の国会議員は次のような発言をした。

「自民党や民主党の議員は『憲法では国民の義務よりも権利について多く書かれているのはおかしい。国民の義務をもう少し入れるべきだ』と言っているが、憲法とは国家権力の横暴を抑制するためのものであり、国民に義務を強要する憲法改正はおかしい」とこのように語っていたのを目の前で私は聞いた。もう20年前の話だが、今でもその人は現職の国会議員である。なるほど、もっともらしい。

憲法とは暴君を生み出さないためにヨーロッパから生まれてきたものだ。

今では『君臨すれども統治せず』の英国国王や象徴となっている時代であるから、現在抑止すべきは議会・行政・司法などの国家機関である。

 

しかし、憲法がきちんと抑止力を持っているかどうかというのは前述の通り、私学助成は私学助成団体を通じているから例外であると言う。その割に政治団体間の寄付の回し方についてはうるさい。また、内閣の過半数は国会議員であるから内閣提出法案は許されるとか、自衛のための「戦力ではない陸海空軍」はかまわないとか、国会議員らによって解釈改憲がいくらでも成立している。護憲を名乗る日本共産党ですら解釈改憲しているのにいったいどんな抑止効果があるというのか。

 

その人はこうも言った。「野中広務氏は、憲法を条文として改正しようとする明文改正派、宮沢喜一氏は解釈改憲であるが明文改正はしないという護憲派。だから宮沢氏は改憲しないという意味では仲間」こうなってくると“憲法オタク”としかいいようがない。文章を変えるか変えないかを問うているのは全く無意味だ。彼女にとって憲法を守ることは自分自身が楽しいのだろう。同じく改憲派も憲法を変えていくということ自体に楽しみをもっている。人間のいわば支配欲の達成のためにやっているのである。

 

野中氏も宮沢氏も軍縮志向であり、さきの大戦では戦争の悲惨さには、身をもって経験した政治家であるから同じような軍縮論を持っていた。

 

「とにかく憲法を変えない」というのが政治信条であるなら単なる“憲法信者”であり、それはもう妄信しているのと変わらない。

要するにどの政治家も「憲法」というそのものに捕らわられて、表面上の体裁や面子のことだけを考えている。

 

「平和は憲法に優先する」ということをなぜ考えないのか。憲法がどうして平和に優先したり、あるいは対等なのか。

 

逆に改憲の側では、変えることがいつも主眼であり、変える内容については二の次という考えを持っている政治家もいる。とにかくなんとなく変えようとするため余計に悪くなる。それは避けなければならない。

 

護憲派は平和を守れといって闘争を起こしている。彼らは、護憲でない悪の勢力は滅ぼしても構わないと思っている人もいる。それが果たして平和の政治理念なのだろうか。人間が傷つくことから戦争が起きることを知らなくてはならない。平和とは、理念を紙に掲げることではない。自己主張の押し付けが闘争をつくりやがて国際紛争になるのである。

 

護憲派も改憲派も、半世紀にわたって結論のでないことに時間を浪費している。

 

いつまでも平行線をたどっていることをやめにしたらどうか。今の時点では、自民・公明・維新・国民をあわせて、憲法改正を発議できる議席数がある。まずは主権者に投げてみて、国民に決定してもらえばよいことであり、国民投票で決しなければ何も始まらないのではないか。そこはゴールではなくスタートであって、自由民主党は結党以来の綱領で憲法改正を第一に定めており、そして与党第一党として選出されているのだから、国民主権の観点からまずそれをすべきなのではなかろうか。