『西郷南洲遺訓』を読む(30)至誠 | 池内昭夫の読書録

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渋沢栄一は、「至誠以て国家を燮理す」と題し、次のように述べている。

子曰。無為而治者其舜也与。夫何為哉。恭己正南面而已矣。【衛霊公第十五】

(子曰く、無為にして治むる者は其れ舜(しゅん)か。夫(そ)れ何をか為すや。己を恭(うやうや)しうし正しく南面するのみ。)

 本章は、舜は場当りのことをせぬことを言うたのである。

 孔子は、能(よ)く天下を治め静平なるを得たのは舜であると称(ほ)めたが、然(しか)らば舜は何をなしたかと云ふに、唯(ただ)己を恭しうして正しく南面して政を為して居るのみであると教へた。

 舜は真直(しんちょく)で曲つたことをしない人であるから、国を治めるにも権謀術策を用ゐるやうなことをせず、至誠を以て懈怠(けたい)なくやつたので、孔子の称めるやうな国をなしたのである。茲(ここ)に云ふ正しく南面するのみと云ふのは、天子の位にあつて正しき政治、多数国民の利益幸福の為に一定の方針を樹(た)て之(これ)れを行ふことを言つたもので、単に南面しても居て何もしないと云ふ意味ではない。

 翻(ひるがえ)つて今日の政治の状態を見るに、廟堂(びょうどう)にある者でも野にある者でも、その主義方針が一定をして居ない、言はば南に向いて居るか北に向いて居るか決つて居らぬ。あつちを見たりこつちを見たりして居ると云ふ有様(ありさま)である。彼の支那に対する態度にしてもさうではないか。南か北か少しも極まつて居ないから、ある時は南に向いて居たかと思ふと北に向いて居つたりする。又対米関係にした所で、日本に一定の方針が確立しその方針の下に事を運んで居つたならば、今日のやうな不幸を見なくて宜(よろし)かつたと思ふ。之れなどは概括的に評論したことがあるが、国の政治なるものは、その方向―方針をはつきりして之れに向かつて進んで行かなければならない。―渋沢栄一『デジタル版「実験論語処世談」》

 『孟子』にも、次のような一節が見られる。

下位に居て上(かみ)に獲(え)られざれは、民得て治むべからざるなり。上に獲らるるに道あり。友に信ぜられざれば、上に獲られず。友に信ぜらるるに遺あり。親に事(つか)えて悦ばれざれば、友に信ぜられず。親に悦ばるるに道あり。身に反みて誠(まこと)ならざれば、親に悦ばれず。身を誠にするに道あり。善に明らかならざれば、その身を誠にせず。是(こ)の故(ゆえ)に誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠(しせい)にして動かされざる者は、未(いま)だこれあらざるなり。誠ならずして、未だ能(よ)く動かす者はあらざるなり。―離婁(りろう)章句上

「下役でいる者が上役に信任されないと、人民をうまく治めることはできない。上役に信任されるには方法がある。同役に信頼されないと、上役に気に入られることはむつかしい。同役に信頼されるにはいい方法がある。両親につかえて気に入られないと、同役に信頼されない。両親に気に入られるにはいい方法がある。自分の身に反省してみてまごころがこもっていないと、両親に気に入られない。自分で反省してまごころがこもっているようになるにはいい方法がある。何が善であるかをあきらかに知らないと、まごころをこめることができない。そこでまごころこそ自然の原理、つまり天の道である。まごころこそ自然の原理、つまり天の道である。まごころをこめようと努力することが人間の原理、つまり人の道である。まごころがほんとうにこもっていれば、動かされない人があるはずはない。まごころがこもっていないと、人が動かされるはずはない」―「孟子」貝原茂樹訳:『世界の名著3』(中央公論社)、pp. 486f