『西郷南洲遺訓』を読む(29)誠 | 池内昭夫の読書録

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『中庸』は、「誠こそが、この宇宙を支配する原理であり、これを具体的に実現することが、人間の務めである」と説く。

誠は天の道なり。之(これ)を誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思はずして得、従容(しょうよう)として道に中る。聖人なり。之を誠にするは善を擇(えら)んで之を固執する者なり。

【通解】此節は上文の誠身を承(う)けて、初めて中庸の極意なる誠を論じ.之を誠にする方法に論及す。

誠卽ち眞實(しんじつ)無妄(むぼう)なるは天の道である。天道は自然に流行して、日月の代る々々明なる、寒暑の往來する百物の.生育するが如き萬古に亙つて一息の差(たがい)謬(あやまり)なきものである。人はもとより天賦(てんぷ)の誠を以て我が性として居る。所謂(いわゆる)天命之を性と謂ふとは是である。倂(しか)しながら常人は人欲の私に繭(おお)はれて未だ眞實無妄なるとが出來ぬ。故に努力勉强して誠ならんことを求むるは人の道である。天性の誠なる者は、其行は安行なるが故に勉强を用ひずして道に中(あた)り、其知は生知なるが故に思索を待たずして道を得、從容(しょうよう)として道に中る。これ卽ち聖人である。努力勉强して誠ならんことを求むるものは、其知は未だ思はずして得ること能(あた)はず、必ず精密に善惡を識別して、その善なるものを擇び、其行は未だ勉めずして中ること能はず、必ず其擇びたる善を專一に固守して失はねやうにせねばならぬ。陳三山日(いわ)く、善擇ばざれば誤つて人欲を認めて天理とすることあらん執ること固(もと)からざれば天理時として人欲に奪はるゝことあらんと。――宇野哲人『四書講義 中庸』(大同館蔵版)、pp. 145f ※無妄:道理にはずれないこと。偽りやでたらめでないこと。
 

 誠は、天上の道理、すなわち、「天の道」である。これを地上においての誠にするのが我々の務(つと)めであり「人の道」である。天上では、誠は道理であるから、自ずと正中する。が、地上では、道理足り得ず、自然に正中することはない。だから、努力し、思考することが必要なのである。

《物化は天道の誠であるが、人道は「之を誠にする」、すなわち天に順(したが)い運に乗ずる。この天に順い運に乗ずるところに情意があり、理知が開ける。故に人の人たる所以(ゆえん)は、つまり元来地上の一物たるべき身がよく天を知り、天に順い、天と二にしてしかも一を失わぬにある》(安岡正篤『東洋倫理概論 いかに行くべきか』(致知出版社)、p. 39)