『西郷南洲遺訓』を読む(31)アミエルの日記 その1 | 池内昭夫の読書録

池内昭夫の読書録

本を読んで思ったこと感じたことを書いていきます。

安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏は、『アミエルの日記』を引いて、次のように解説する。

人間の真価を直接に表すものは、その人の所持するものではなく、その人の為すことでもなく、ただ、その人が在るところのものである。

偉大な人物とは、真実な人のことである。自然がその人の中にその志を成し遂げた人のことである。彼らは異常ではない。ただ、真実の階梯(かいてい)を踏んでいる。―『アミエルの日記』

《真に人間の真価をあらわすものは、その人がどういう地位にあるとか、どれほど財産をもっているとか、どんな名誉職にあるとか、あるいはまたかつて国会議員をやったとか、大きな会社の重役であったとか、何か大きな事業をなしたとか、というようなことではなくて、ただその人がどういう人間であるかということであります。

 A man's worth lies not so much in what he has as in what he is.(人の価値は、その人の財産ではなく為人(ひととなり)に在る)

 偉大な人物とはまことの人であります。偉人とか、英雄とかいわれるような異常の人ではなく、ただまことの人であります。自然の権化(ごんげ)と申しますか、自然が造った人物のことであって、真実の段階をふんでおります。(安岡正篤『先哲講座』(致知出版社)、pp. 37f)

 「誠(まこと)」は、「天の道」であり、これを地上において実践する人物こそが<偉大な人物>だということだ。

《これに関連して思い出すのはケインズの言葉です。一時ケインズの経済学が日本を風靡(ふうび)したことがありますので、おそらく皆さんもこの人をご存知であろうと思います。ケインズの絶筆と申しますか遺著に『我が若き日の信念』という本があります。じつに興味の深い内容のある書物で、その中に彼は「今日は非常に功利的となって、人間内容もきわめて打算的な人が多いが、人間の価値は、その人間が何を為したかより、その人がいかにあるべきかのほうが重大である。例えば教会に行って説教を聞き、敬虔(けいけん)な祈りをささげることは誰でもやることであるが、これは信仰というものではない。それよりも、いかにキリストの教えに従っているかということが大切である。金をもち、地位があり、いろいろな事業をやったなどという人は世の中にたくさんいるが、これは必ずしもその人の真実をあらわすものではない。何もしなくても、また何ら人の目に立たなくても、立派な人は立派であるのだ。これが人間の真価をきめることであって、この信念はいつの時代も変わらぬ真実である」と書いております。

 これはちょうどアミエルの言葉と符節(ふせつ)を合(ごう)するものであります。本当の人間の考えることは皆このように一致するものであるという感を深くいたします。(同、pp. 38f)

 「真理」は、時・処・位を選ばない。

 特に子供の教育にはこれが大切であります。教育ママが教育を誤るのもこの点であって、子供は純真でありますから、つい熱心な母親の強制的な言葉に従います。だから子供が机に向かってさえいると、マンガを読んでいても、眠っていても、素直に勉強していると、教育ママは思いがちですが、こんな勉強、こんな教育は何にもなりません。子供の真心によく注意して、強制するのではなく、これを認め励まさなければなりません。形式主義、功利主義というものは厳に戒めなければなりません》(同、p. 39)