打毬楽と左ぎっちょ | 日本音楽の伝説

日本音楽の伝説

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平安時代、貴族たちの間では、「打毬」(だきゅう)というスポーツが流行っていました。馬術競技のポロやホッケーのように、球をスティックで打つ遊びです。

 

イギリスのポロは、植民地だったインドから伝わったと言われていますが、元々は、中央アジアの騎馬民族が始めた競技だったようです。それが中国に伝わり「打毬」となったようです。

 

空海が生きていた頃、822年の正月、渤海国の国使が豊楽殿で「打毬」を披露して、嵯峨天皇から褒美を賜った記録(『類聚国史』の第72巻)があります。

 

『続日本後紀』にも、承和元年(834年)に、仁明天皇が武徳殿の庭で、四衛府の武者たちに打毬の競技をさせたと記録があります。

 

千年も前に、日本人がホッケーをやっていたとは驚きですが、日本のオジさん達のゴルフ好きは、平安時代に遺伝子に刻まれた記憶なのかもしれません。

舞楽の中には、この打毬の動きを元にした「打毬楽」(たぎゅうらく)という舞楽があります。別名「万利宇知」(まりうち)とも。

 

この舞楽の衣裳は色鮮やかで、平安貴族たちの美的感覚は、エルメスを超えていると、つくづく思います。


平安時代は、「打毬」の競技の間に、この舞楽が演奏されていたようです。

「源氏物語」蛍の巻にも、六条院の馬場での競射のシーンで、「打毬楽、落蹲など遊びて、勝負の乱声ども、ののしるも、夜に入りはてて、何事も見えずなりはてぬ」とあります。現在は、4人で舞いますが、当時は、40人又は80人で舞ったこともあったそうです。


「打毬楽」では、「球子」(きゅうし)と呼ばれる宝球型の球と、球を打つ五色の彩色のスティック「毬打」(ぎっちょう)を手に持って舞います。

 

現代でも使う「左ぎっちょ」という言葉は、平安時代に、スティックのぎっちょうを左手に持って舞った貴人がいたことに由来します。

この舞は、4人の舞人のうち、途中から1名だけが別の舞を舞うのが特徴の一つです。「球子」をもっている舞人は、曲の後半、懐から「球子」を取り出して舞台に置き、その回りをぎっちょうで、打つ仕草を繰り返しながら回ります。一回転すると、また同じ舞に戻り、4人が舞を終えます。