蜻蛉日記 | 日本音楽の伝説

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藤原道長の父の兼家には、複数の夫人がいました。

『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の著者である道綱の母も、兼家の妻の一人です。

『蜻蛉日記』には、息子の道綱が宮中の弓の試合で活躍し、舞楽を舞った時のことが、記述されています。いささか子供自慢な文章ですが、まるで、平安時代の行事が目に浮かぶようです。

<蜻蛉日記>

宮中で弓の御前試合があるため、道綱たちは熱心に準備しています。
うちの道綱も、射手として弓の試合に出場するそうです。
弓の試合は、2つのチームに別れて、対抗戦で競います。チームが勝った場合には、勝利を祝うため、「納曾利」(なそり)を舞うそうで、道綱は熱心に「納曾利」の舞を練習をしています。

わが邸では、道綱を舞に馴れさせようと、毎日、管絃を演奏して、大騒ぎの状態です。

3月10日、わが邸で、予行演習の試楽がおこなわれました。
舞楽の師である雅楽寮の多好茂(おおのよしもち)は、女房たちからご祝儀をたくさんもらっておりました。男たちも、衣を脱いで、多好茂にご祝儀として授けていました。

「兼家様は、物忌みですから」といって、夫は来ませんでしたが、夫の随身や舎人などの従者たちがやって来ました。

予行演習が終わる夕暮れに、多好茂が「胡蝶」を舞いながら登場したため、「胡蝶」の舞人の冠の山吹にちなみ、黄色の単(ひとえ)を、好茂にかぶせて与えた人もいました。

御前試合の当日15日、夜が明けないうちから夫がやって来て、舞の装束のことを指図したり、人が集まり、騒ぎ立てながら息子を送り出しました。

私は、道綱のチームが御前試合に勝利し、「納曾利」も上手く舞えるように神に祈っておりました。下馬評では、道綱のチームは腕前からして、劣勢ということです。
「舞楽の練習は無駄になってしまうのだろうか。勝敗はどうであろうか」

と、心配しているうちに、日も暮れてしまいました。

満月が明るいため、格子も下ろさずに息子の勝利を祈願しておりますと、従者たちが走って帰ってきて、真っ先に弓の御前試合の話をしてくれました。

「道綱様は、何本矢を当てました」
「道綱様は全力で矢を命中させ、中将戦では圧倒されました」などと報告してくれたため、心配していた私にとって、彼らの報告は、嬉しいやら、心配やらで、気持ちの乱れは例えようもありません。

「チームの勝敗は、道綱様の甲の矢と乙の矢にかかっていました。

道綱様が中将戦に勝利したおかげで、総合点で引き分けになりました」と、重ねて告げてよこす従者もいました。


勝負が引き分けであったことから、両チームが勝利を祝う舞楽を舞うことになったようです。

まず、前のチームが「陵王」を舞ったそうです。舞人は、私の甥に当たる、うちの道綱と同じくらいの年齢の少年が務めたそうです。

道綱は、その少年の次に「納曾利」を舞い、夫の口添えがあったからでしょうか、円融天皇様から、褒美として衣をいただきました。

宮中からの帰りは、「納曾利」の舞楽装束のまま、息子だけではなく、陵王を舞った少年も牛車に乗せて、宮中から退出したのだそうです。

 

夫は、道綱の活躍ぶりを私に語り、「よく私の面目を施してくれた。公卿たちも、道綱の勇姿を見てかわいがってくれたよ」などと、繰り返し繰り返し、涙ぐみながら話してくれました。