『瞳をとじて』 | First Chance to See...

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 ビクトル・エリセ監督の、待望すぎるほど待望の新作映画。正直、待ち過ぎて待ってることすら忘れかけてたよ!

 

 

 映画は「悲しみの王」という名の邸宅で始まる。この邸宅の主である老人が、死を目前にして、実の娘探しを依頼する——というシーン、実は『瞳をとじて』の主人公である映画監督ミゲルの未完成映画だということがわかる。この映画が未完成に終わったのは、撮影中に主演男優が行方不明になったから。そしてそれから数十年後、ミゲルは未解決事件を取り扱うテレビ番組に呼ばれてインタビューを受けるが、これが半ば隠遁状態にあったミゲルを思いがけない追憶と発見の旅へと誘うことになる。

 

 記憶と映画にまつわる、静寂と愛情にみちた作品だった。良い意味で、とても21世紀の映画とは思えない。そのせいか、TOHOシネマズのシネコンでこの映画を観ている間、私は1980年代後半から1990年代にかけて、日本でミニシアターが全盛だった時代の映画鑑賞体験を思い出していた。

 

 シャンテシネ、シネマライズ……事前の座席指定なんて夢のまた夢、観たい回の数十分前から並んで待って席取りをするのが当たり前だった時代。上映前に流れる予告は、当然、そのミニシアターで上映予定の作品だから、ビクトル・エリセの『マルメロの陽光』(1992年)を観にシャンテシネに行けば、そこで目にする予告はテオ・アンゲロプロスや侯孝賢の新作だった。名前を聞いたこともない世界の巨匠監督たちの、意味不明だがとにかく圧倒的に美しい映像を目にして、「これは観ておかねば」とやみくもに胸を熱くした日々。

 

 快適さで言えば、座席の背もたれといい、ネットでの事前予約といい、現在のシネコンで観るほうがはるかに快適だとわかっている。わかっちゃいるが、ビクトル・エリセの新作をシネコンで「消費」する時代の趨勢に、もったいなさを感じずにはいられない。もちろん、年寄りの郷愁にすぎないんだけどさ。