例えば、
「氷」を作るならば、
水を0度より下げればよい。
これは小学生でも知っている
「理」科の話だ。
この時の「理」は「水」にあるわけだ。
どれだけ法で縛ったり
どれだけ説得したり脅したり
おだてたりしたところで
水は凍らない。
・
人間は生きていると
様々「うまく行かない」事態に陥り
努力をどれだけやっても
泥沼迷宮にハマる事がある。
この、
うまく行かないことというのは、
この「理」が見えていないから
うまく行かない。
水を説得して凍らそうとするのと
何らかわりが無いのだ。
・
例えば、
どれだけ言って聞かせても
思ったように部下が動かない事はよくある。
これは、
部下を「育てよう」としているのに
「育てる」という事の
「理」を見ていないからだ。
果たして、木や草花が「育つ」のに
言って聞かせることが必要だろうか。
何か理解させる必要があるだろうか。
その手出しが必要だろうか。
手をかけ過ぎた野菜は水っぽく不味い。
山で自然に育った野菜は小さく形が悪いが
強く、旨い。
さて。
育つというのはそもそも、
どういうことだろう。
中身がなく弱く不味いわりに
見てくれや言うことだけはそれっぽい、
そんな人間を育ててしまってはいまいか。
果たして
「理」を見ずして
如何にして人を成長させられようか。
・
例えば、
多くの利益を得ようと
会社の事業を様々展開したり
助成金や融資を受けたりするが
結果が思ったように出ないことはよくある。
これは、
「利益」を増やそうとしているのに
「利益」が生まれるという事の
「理」を見ていないからだ。
手際がよく毎日全て売り切るパン屋と
手際が悪く毎日たくさん売れ残るパン屋と
同じ材料、同じ機械で同じ売上の時
どちらが利益が多いだろう。
その新事業は如何にして
手際よく行うことが出来ようか。
申請書類を山ほど書くことは
売れ残りを減らすのに如何ほどの貢献をするだろう。
果たしてその「仕事」は
本当に「利益」を生むためだと言えるだろうか。
・
さて。
題名にある
「事の理に依らば、労せずして成る」は
中国で2600年以上前に書かれた
文献にある言葉なのだそうだ。
そこよりさらに遡ること1000年、
器が素焼きで
獣の皮の服をきて
藁葺の屋根に住み
ももの毛が無くなり
ふくらはぎの肉が削げるほど
王自身までもが働いていた時代がある。
この王は、
正しいことをいう者も少ないかわりに
惑わす者もまた少ない世界にいた。
この王は人よりも
風に触れ
土に親しみ
光を受け取っていたことだろう。
そこから学ぶことは、
「理」そのものだったのではなかろうか。
そして、この王から学び書かれたのが
この言葉なわけだ。
昔の人も、その今を憂い、
その昔の人から学んだわけだ。
・
我々の生きる時代というのは、
惑わすものばかりをもてはやし
理にそれたことばかりをやっている。
物事を進めるとき、
わざわざ難しくし、
無駄なことばかりを行っているという事だ。
だがそれは
翻ってみれば
本来はもっとスムーズでシンプルに
物事を進めることが出来るはずなのだ。
その努力の先を、
少し今と違うところに向けるだけで。
