【デカルトの逆手】
我思う、故に我あり
というデカルトの言葉が本当なのだとすれば、
「我」というのは
「思考」によって認識される、
その「思考」そのものを指すわけだ。
それはいいのだが、
これを逆手にとってみると、
「思考」とは、
「無い物」を認識するために存在する。
と言えてしまうのではないか
という話。
まずは人間が、思考「以外」で
認識している物事を見てみよう。
例えば、
自分の左手を右手で思いっきり叩くと、
「痛い」という「感覚」がある。
この時、いかにして
「痛い」という感覚が生まれ
どのように、どこに伝わり
どういう原理で「痛い」という感覚になるか、
ということはあまり考えないだろう。
ただ、自分で自分の手を叩けば、
「痛い」という「感覚」があるから
それだけで十分なわけだ。
「体で覚えろ」なんてのはよく言った話で、
「感覚」というのは、
「自我」の「理解」つまり、
アタマではわかっているという状態よりも
「よく認識」できている状態だから、
わざわざ考える必要が無いわけだ。
「感覚できるもの」というのは
目で見たり、手で触ったり出来る、
五感で感じることができる物なのだから
「実在の物」と言い換えることが出来る。
これを認識するのは「感覚」が司っていて
自我や思想はその情報だけを得ることになる。
では「自我」は一体なぜ
「思考」するのだろう。
優秀な五感を持ち、物の認識は出来るのに、
何をわざわざ考えるのだろう。
実際、思い起こしてみてほしい。
常に思考とは、
「わからない」という事に対して
働いているのではなかろうか。
「感覚できるもの」はすでに
理解出来ているのだから、
「わからない」というのは
「感覚できない」ものとも言える。
「感覚出来るもの」を認知するのが
「感覚」なのだから、
「感覚できないもの」を認知するのが
「自我」や「思考」だ、と言えるわけ。
で、
「感覚できない」ものとは何か。
それは、「実在するもの」は感覚が司るから、
そうではない、つまり、
「実在しないもの」と言えるわけ。
そして、「実在しない」のだから
あくまでも「予測」でしか無いとも言えるわけだ。
これで大体、
「思考」というものは
「無い物」を認識するために存在する、
と言うことが出来るわけだ。
この事から色々わかるのだけど、
一つ例を上げるとこんなのがある。
人間は、思考ばかりしていると、
必ず「無い物」が見えすぎてしまう。
「思考」は「無い物」つまり
新しい物を生み出すチカラもあるが、
感覚を無視して
思考に偏りすぎていると、
自分にはアレがないコレがない、
あれが足りない、コレが足りないと言って、
人生がつまらなくなる。
そして他の誰かになろうとする。
こんな人生になるという事だ。
それは、
「思考」そのものが
「無い物」を認識するために存在しているから、
思考に人生を預ければ
自ずと「無い物」「足りないもの」に
囚われた人生になるわけだ。
この時重要なのはバランスだ。
「思考」は常に「予測」しかできないのだから、
「体感」によって毎回修正するべきなのだ。
また、「感覚」は「思考」よりも正確なことは
忘れてはいけない。
ってな具合に。