〈クワバラ・ゼミの部屋〉で、今年度「編集企画」で作成したフリーペーパーの表紙を掲載しております。
 
表紙を載せているのは2003年度からの14年分なのでございますが、実は「編集企画」という名前の科目が始まる前年の2002年度にも文章表現IIBという名前でプレ開講していたのでした(「リトルマガジン」とか書いてあるのは同じ科目を分担した人の言葉づかいで、最初の頃は一人で担当していたわけではなかったのだ)。
なので、2年生に編集の作業を実践させるのをもう15年間も続けてきたので、ここらで一区切りして来年度からは科目名が変わり、科目の位置付けも変わり、担当者も代わります。
編集・出版に関心のある人にはより役に立つ科目になるはず。例年言ってきた「社会の縮図」という側面は弱くなるかもだけど。
 
「編集企画」の実習で、実力を発揮して活躍した人、編集の仕事に関心を持つようになって実際出版関係の仕事をしている人、自分の性格をいい意味でも悪い意味でも再確認した人、今はただ懐かしい人、いろいろでしょうが、全部合わせておつかれさまでした。
 
 
しかし、昨日ふれた一昨年度までの「文学とサブカルチャー」、昨年度までの「編集・出版論1」、今年度までの「編集企画」と一年おきに担当を外れるor科目自体が無くなるというのが続いてけっこう担当科目が変わっている。
いや、大学教育のあり方自体が変わることを求められているのを反映しているんですがね。
新カリキュラムが全学年にいきわたる2年後の四月あたりにまたその辺のことは詳しく書きますかね(絶対忘れそうだ)。
二期を見終わって感じたのは、あ、これ完全に少女小説をなぞっている、ということだった。
原作は未読なので、あくまでもアニメについてだけれども、実に正統的な形で、もしかしたら陳腐と言ってもいいような形で、女子学生と女子学生との関係性を描こうとしている。
たとえば、二期の後半、3年生女子の物寂しげな表情を、彼女と一番近い場所にいる1年生女子が気に掛け続ける、というのは「花物語」の「鬱金桜」を連想させる。
久美子があすかのことをあからさまに慕い「セーラ姉様」的な名で呼ぶというのは考えにくいが(その関係性は香織と優子が代わりに担っている)、しかし、(学校から去る理由は違うものの)年の差の故に主人公は先輩のことを思いつつも見送らざるを得ず、一人残されるというのも共通する点だ。
また、3年生女子の使う楽器が長く会うことができずにいた親から譲り受けたものだというのは、母の形見のピアノを弾きに夜な夜な音楽室を訪れる「鈴蘭」の少女をおもいださせるし、親子とは名乗れぬ生き別れの親との邂逅・またはすれ違いというのも「野菊」などで描かれたモティーフなのだった。
 
一期のメイン(劇場版では更に中心となっていた)だった久美子と麗奈の関係も、女学生的な「エス」として見るのがいいのだろう。
(このアニメについては、「百合文化」と関連させた形で泉信行さんが既に論じられていますが)
 
さて、二期の放映が2016年12月で終わり、年が明けた2017年1月に女子高生達の集団と関係性を描いた小説が発表された。
この小説の語り手は、クラスメイトの女子高生3人を見守る他のクラスメイト「わたしたち」なのだが(他の解釈も可能だと思うが、一番わかりやすい見方をここではしておく)、彼女たちは少女小説から連綿と続く少女を描写の対象とする文化(「百合文化」もそこに含まれるのだろう)に自覚的である。自分たちが文化の蓄積の中から生み出される物語に囲繞されていることを意識し、あえてその物語と戯れているように読める。
彼女たちは特別に見える真汐・日夏・空穂の動向に注目し、またその物語を妄想し語るのだが、3人が担う妻(母親)・夫(父親)・娘という「家族」の役割分担と、少女小説の世界が拮抗することで、関係は軋み物語は歪んでいく。
しかし、「わたしたち」はそれを決して深刻に語りはせず、読後感は軽やかだ。
 
アニメやマンガ好きの人はあまり『文學界』は読まないのかもしれないけれども、どういう風に受け止められるのか興味がある。
まあ、単行本になるのを待った方がいいんでしょうかね。

年末、こちらの新刊を読んだ。もう6巻目ですか。

 

 

その後、年末から年始にかけてこのシリーズ(と言ってもまだ2冊だけだが)を読んで気になったのが、両者に共通して登場する中国出身の登場人物が使う日本語だ。

 

 

中国人の使う日本語のステレオタイプについては、いわゆる「役割語」の代表例として言及されることが多い。

 

 

古いところでは張々湖、最近では(そんなに最近でも無いが)神楽の使う「~アル」とか「~ヨロシ」みたいな「中国人」であることを示すための言い回しが有名な訳だが、今では既にそういう言葉を使うこと自体がギャグになっていたり、その登場人物の胡散くささを表すものとして使われている。

 

で、最初に挙げたマンガと小説ではそれらとは違うが、でも中国人っぽいと思わせるような日本語が使われている。

 

「ジンサン一人中国いると死ぬマスヨ!」

「一週間後、運転免許もらえるデスヨ」

「ワタシやてるの多いデスネ」

(『中国嫁日記』6)

 

「嘘には、取り返しのつく嘘とつかない嘘があるね。お前のはつかないほうね。」

(『聖女の毒杯』)

「……お前の後ろにあるものは、何ね?」「ダムです」「ダムには普通、何が溜まっているね?」「水です」

(『聖女の毒杯』)

 

後者は小説のしかもかなりキャラクターが誇張された人物の台詞で、前者はエッセイマンガで実在の人物の発言に基づいていているという違いがあるわけだが、どちらも以前からの中国風味日本語と離れつつその名残を残している。

後者では別の中国から日本にやってきた登場人物には特徴の無い台詞を使わせていて(これは誰が発話しているのかわかりやすくするという意味もあるのだろうが)、何も意識せずに「~ね」という言い回しを使っているわけではなさそうだ。従来の役割語は使わずに、会話を書く際に他のキャラクターと区別がつきやすいようにということで選ばれた表記なのだろう。

なお、「ね」については、『〈役割語〉小辞典』でも「近年では、戦前から用いられてきた〈アルヨことば〉に代わる〈中国人語〉として、多く見られるようになってきている。」と指摘されていますな。

 

そして、今後は前者のような実在の人物の発言に基づくエッセイ的なものが主導する形で新たな役割語が生まれるのでしょう。

 

……「何ね?」「何が溜まっているね?」という言い回しを書き写している時に思い出したのだが、この本を読んでいて「~です?」「~ます?」という疑問型が繰り返しているのがすごく読みにくかった。

 

 

書かれている内容自体は既知のことが多かったものの基本的なことがわかりやすく書かれていて良かったのだが、質問者の疑問は「~ですか?」「~ますか?」と表記して欲しかった。

このLっぽい疑問型って今は普通なんでしょうかね。あれは変人風のしゃべり方なんじゃなかったんです?

 

全部で34本。

 

内訳は、

日本アニメーション14

海外実写5

日本ドキュメンタリー4

日本実写4

海外特撮3

日本特撮2

海外ドキュメンタリー1

海外アニメーション1

 

「ガルム・ウォーズ」は日本特撮、「ダゲレオタイプの女」は日本実写に分類。

「ガンダム」だけで三つ見ているのが昨年の特徴かな。

 

2017年も注目作多いですよね。

新劇場版…… いやいや。

 

http://www.denkigroove.com/themovie/sp/home.html

http://girls-und-panzer.jp/
http://garakowa.jp/
http://www.geass.jp/akito/final.html
http://lopatkina-movie.jp
http://kaki-kouba.com/
http://chihayafuru-movie.com/index1.html
http://newdeer.net/sagashite/
http://gaga.ne.jp/holmes/
http://gaga.ne.jp/hateful8/
http://anime-eupho.com/
http://bitters.co.jp/sanga/
http://www.gundam-the-origin.net/story/index.html
http://garmwars-movie.com/
http://chihayafuru-movie.com/
http://hamidashi-fujio.com/
http://www.fakemovie.jp/
http://gundam-tb.net/
http://shin-godzilla.jp/
http://www.accel-world.net/
http://www.foxmovies-jp.com/xmen/
http://www.kizumonogatari-movie.com/
http://gaga.ne.jp/hitlerisback/
http://www.kiminona.com/
http://www.disney.co.jp/movie/bfg.html
http://animatorexpo.com/
http://koenokatachi-movie.com/
http://www.bitters.co.jp/dagereo/
http://konosekai.jp/
http://www.kinmosa.com/
http://www.gundam-the-origin.net/
http://satoshi-movie.jp/sp/
http://www.starwars.com/films/rogue-one
http://www.transformer.co.jp/m/darenai
http://www.gundam-the-origin.net/
http://satoshi-movie.jp/sp/
http://www.starwars.com/films/rogue-one
http://www.transformer.co.jp/m/darenai/

初見は4本。
他に上映会で二度目見たものもあった。
https://fake-in-himeji.jimdo.com/

もう少し見るつもりだったが、体調不良などで実現せず。他にも出かけたりもしてるしね。

結局一年でどれだけ見たかは年が明けてのまた明日。

春日太一の文藝春秋で出している本がようやく電子書籍化。まずはこちらを読みました。

 

 

全盛期東映の映画制作の方針、徹底的な「大衆」向けの作劇については、『B級学』でも読んでいたが、それを更に詳細に時代を追って語っていて興味深かった。

 

ちょうどこれを読んでいる時に、トリュフォーによるヒッチコックのインタビュー本について取り上げたドキュメンタリーを見たので、批評家ではなく観客のことを考えての作劇という共通点が更に面白かった。

 

 

いや、任侠・ヤクザ、そして殺人と、犯罪を描いている映画を中心に作っていたという点も共通しているのだけれども、それも観客を喜ばせるためなのでしょう。

 

一番最近見た映画もある意味映画についての映画だったように思う。これもまた犯罪にはならないものの人を死なせてしまった人間を描いた、「EVERY THING WILL BE FINE」というなんとも皮肉なタイトルの映画なのだが、描き方は何とも刺激的なところはなく非常に抑制的だった(他にもちょっとした軽犯罪も出て来る)。

 

小説家が主人公ではあるものの、自分が残したこと・ものが他の人に思いがけず影響を及ぼしてしまうことの恐れとその克服が描かれており、それは映画を作る者が抱えた問題でもあるのだろう。

同じ監督の10年前の映画が意識せず残してきてしまった子どもと再会する話で、それが映画界や社会に大きな影響を与えた彼自身の過去の映画との再会を暗示しているように読めたのを思い出した(そのへんのことは、当時ここで書いています)。

 

最初にふれた本や映画で取り上げられた映画たちも、避けられず影響を残してしまっているのでしょうが、そのへん後者ではヒッチコックについて語る現代活躍する監督達という形で暗示されていた訳ですね。

「La Femme de la plaque argentique」もヒッチコックの影響から見ることができそうだなあ。

 

前期のテキストについてはこちらで紹介していましたが、それらをふまえて上で制作した電子書籍がこの2冊。

 

『フツーの生き方? 初級編

『フツーの生き方? 中級編

 

基本中学生向けの『初級編』と、基本高校生向けの『中級編』に分ける形になったのは、内容が多岐にわたっているので、整理しているうちに基礎的な情報とさらに詳しい情報に分けることになったため。

『上級編』はないのかとお思いかもしれませんが、『中級編』を最後まで読めばその謎は解けるでしょう。

 

どちらにもコメントが付けられるので、ぜひ感想を書いてもらいたいです。

http://koenokatachi-movie.com/
http://www.bitters.co.jp/dagereo/
http://konosekai.jp/
http://www.kinmosa.com/
 
先月は4本。
圧倒的なものを見た、って感じ。
黒沢清は相変わらず。最後にセーヌ川とエッフェル塔が出てきて笑った。
4本目は、一番低予算なのだろうが、大スクリーンで見せることを意識した映像が良かった。
{B2BF5759-184B-4358-9766-A93C4398A457}

今年もアサガオの種を収穫。
その前にはじけたのもあって、今までで一番少ないかも。

しかし、たくさんあっても蒔ききれないのでこのくらいでいいのでしょう。

では、また来年の春までアサガオの話はお休みです。

この一週間いろいろなことがあった。

 

最初に片淵須直監督の名前を知ったのは、〈WEBアニメスタイル〉の旧サイトで連載されていた、「β運動の岸辺で」というコラムだった。今となっては、どの回を最初に読んだのかは覚えていない(遡って古い記事も読むもので記憶が曖昧になるのです)。

その中で語られている「魔女の宅急便」とか「名探偵ホームズ」のスタッフとしては全く意識していなかった訳で、その点実にヌルい話である。

 

コラムに加えて、新作映画「マイマイ新子と千年の魔法」を〈WEBアニメスタイル〉がおしていたこともあり、実際に劇場に見に行くことになる。

 

 

〈WEBアニメスタイル〉は新サイトに移行し、片渕監督も新たに「1300日の記録」というコラムを連載し始める。そこで準備中の次回作として語られ始めたのが「この世界の片隅に」というこうの史代さんのマンガを原作とする映画だった。

 

この映画の企画は牛歩のようにゆっくり進み、その途中で新宿ロフトプラスワン大阪のロフトプラスワンウエストでの監督のトークイベントなども開かれたのだが、最終的に実現のために選ばれた方法はクラウド・ファンディングだった。

 

クラウド・ファンディングの成功から8ヶ月経って、先週の11月12日(土)、ついに映画「この世界の片隅に」は公開された。

それから起こったことは、多くの人がご存じの通りである。

 

最初に雨宮まみというAVライターの名前を知ったのは、同じくAVライターである「安田理央の恥ずかしいBlog」というはてなダイアリーだった(現在ははてなブログに移行して、タイトルも「ダリブロ」と変更されている)。

あるエントリーにいいコメントを付けている人がいて、はて、このmamiamamiyaという方はどなた? とはてなIDをクリックしたところ、「雨宮まみの「弟よ!」」に行きついたわけだが、やはり最初に読んだ記事がどれだったかは覚えていない(遡って古い記事(同前)。

 

そのうち、ネット上あちこちでコラムが始まって、楽しんだり考えたりしながら読んでいたところ、「セックスをこじらせて」のネット連載が始まった。

「弟よ!」の方でちらちらふれられていた話ではあったものの、こちらではずいぶんと自分自身のことに踏みこんでいると思っていたら、単行本化されることになったのだった。『女子をこじらせて』というタイトルで。

正直ネット連載のタイトルの方がインパクトがあっていいけど、本として書店に置くのに「セックス」はアレなのかな、と思っていたのだが、その後の流行語としてのヒットとエッセイストとしての活躍ぶりはご存じのとおり。我ながら「売れる」ことへのセンスが無いね。

 

 

いずれもネットが無ければ出会えていなかった。いずれもネットがここまでのヒットや活躍のきっかけになったといっていいでしょう。

 

この魅力的な映画と、この魅力的な書き手に出会ってほしかった、といまさら思う。

「この世界の片隅に」を見た雨宮まみが、どのように、何を語ったのか、どちらも女性について生きる楽しみと生きづらさを主題にしているだけに、読んでみたかったものです。