テレビ放送から18年余り経った今年の1月に劇場版が公開されたロボットアニメから話を始めましょう。
公開から一カ月くらい後の監督の次のようなXでの発言に、コノエ艦長がコーディネイターなのが意外というリプライが付いていた。
逆にいかにもコーディネーターだという感想も無い訳ではなかったが、おそらく偏りのないバランスのとれた人柄かららしくないという印象を持った人が多かったのだろう。
コーディネーターといえば、能力はすごいのかもしれないが、性格はピーキーというイメージは、劇場版の新しい敵では更に強まっており、精神攻撃とかできるのかもしれないが、実際は劣化版という印象は拭えなかった。
そもそも最初テレビシリーズが始まったあたりで、デザイナーチャイルドなら、性格の傲慢さとか、嫉妬心とか、怒りにとらわれてしまうとか、コントロールした方がいい精神的な性質にかかわる遺伝子も整えたらよさそうなのに、なぜそこはナチュラルと変わらんのか、不思議でしょうがなかった。
テレビシリーズ二期見終わったあたりで、お話を考えている人たちにはそういうSF的な観点はなく、コーディネーターというのはニュータイプに変わる主人公や敵が特別な理由づけに過ぎないということがわかってきた。
性格のピーキーさも、ストーリーや場面を盛り上げるのに必要だから、また偏っているくらいの方がキャラクターとしての魅力になるから、そこをいじるような設定は思いつきもしなかったのだろう、と考えるようになった。
またマイペースで怠惰な学生キラ・ヤマトが、モビルスーツ搭乗者として次第に傲慢になっていくというのは、「原点回帰」を謳ったこの作品らしいアムロ・レイへのオマージュだったんだろうし。
ただ、それはそれとして妄想するのは視聴者の自由なので、CE世界で最初にデザイナーチャイルドを作ろうと考えた科学者のことを考えてみた。
その人自身は当然ナチュラル(という概念はもちろんコーディネーターが生まれる前は無かった訳だが)ではあったものの、知能についても肉体についても非常に優れた人間で、自分のような人間がもっとたくさんいたら世界は良くなるはずだと発想して、人工的に優れた人間を作る技術を開発し成功させた。ただ、人間の性格のトラブルを生じかねない部分、それについては、手つかずのままだった。
(その理由をテレビ放送当時は性格というのは遺伝子操作ではどうしようもないものとして描いているのだろう、スタッフの諦念の現れと考えたりもしたのだが、上で書いたようにおそらくそこまでは考えてない。)
性格にかかわるゲノムは探せば見つけられただろうが、その科学者にはそういう発想は無かった。なぜなら科学者自身が他人の傲りや妬みや怒りや独占欲という感情を感じることができなかったから。彼にとっての他人とは、能力のみではかるものだったから。おそらくそういう脳の構造を持った天才だったのだろう。
これが劇場版まで見て現在いたった解釈(妄想)です。
感情に関心を持たない人間が開発した技術が時に極端な感情にふりまわされる人間を生み出したというのは皮肉な話ですな。
しかしSF的にはこの(妄想)科学者の方が未来の人間の典型なんですけどね。
古くは星野之宣の『2001夜物語』とか、最近の間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』でも、人間は感情を必要としなくなるものへと変わっていくというビジョンが示されてますよね。