物事に慣れてしまうと、その環境が自分にとって望ましくなかったとしても
居心地よく感じてしまったり、変化に適応できなくなってしまうことがあります
たとえば、
自分を大切にしてくれない相手から離れることができない、
習慣になっているからやめることができない、
セクシャル/モラルハラスメント等でも受け流してしまう、
やり過ごすことを覚えてしまう、
というように。
けれども、私たちは常に変化し続けてもいます。
その内容は人それぞれですけど、年を取らない人はいませんし、
寿命が来たら、肉体は消滅します。
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知っている方も多いかもしれませんが、
熱湯の鍋の中にカエルを入れたら熱さで飛び出してしまう。
けれども、冷たい水を張った鍋の中にカエルを入れてゆでると
心地いいまま、
それが熱湯であることも気が付かずにやがては茹でられて
しまいます。
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何が言いたいかというと、常に疑いの目を持つということ。
自らの周りに起きている変化が、
自分にとって適切なものなのか、
それともそうでないものなのか。
特にスピリチュアル的な目に見えない世界については
妄信するのではなく、取り入れるくらいの感覚が必要だと
私は思います。
それが娯楽や楽しみ、依存性をもたらないのなら、問題は
ありません。
けれども、もし、そうでない場合、一度立ち止まってみてください。
・・・身近な例を挙げるならスマートフォンがまさにそう。
以前、韓国に旅行した時、
車内のスマートフォン利用者の数にとてもびっくりしたんです。
みんなが前ではなく、下を向いているの。
それと同じことが数年後の日本でも起きています。
今、日本の電車内で数年前の韓国とよく似た景色を見ても
驚きません。
場合によっては私も移動しながらスマートフォンをチェックして
いたりもします。
慣れってそういうこと。
でも、同時にとても危うい。
だって、スマートフォンって便利な反面、使い方を誤ると
考える力や視力を奪ってしまうから。
気がついたら茹でカエルなんて嫌でしょう?
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本記事は、スピリチュアルとは関係ないように見えるかも
しれませんが、これらはすべてのことに当てはまります。
金銭、仕事、人間関係、恋愛、ライフスタイル、
そして、思想や信条、内面のあり方。
自ら考え、行動する力を持たないと、【誰かに流されて】しまう。
結果として、気がついたら自分ではなくなってしまう。
自分が自分であるために。
繰り返しになりますが【必要に応じて】、
どんなに良さそうな人の言葉でも
どんなに好きな相手でも、
どんなに居心地がいい場所であっても、
疑いの目を持つことを大切にしてほしいと思います。
そういったご自分のご状況が混乱していてわからない時は
新レムリアングリッドや癒しの花がおすすめ。
依存させずに物事の本質を見る目を養う側面があるので、
私もずいぶんとお世話になっています。
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さてさて。
相変わらずまとまりがないのですが、本日はこの言葉にて〆
きわめて端的に、
【慣れに対する警鐘】をならしていると考えるのですが
いかがでしょう?
【ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。
日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。
死んでこの太平を得る。ありがたいありがたい。】
注:本文章にはさらに深い意味もあり、一側面でしかありません。
夏目漱石:「吾輩は猫である」より 抜粋の上、引用
好きな作家さんなので機会があったらいずれまた。