こんにちは。和久田ミカです。
本日は、おととしの過去記事から。
以前、教師をしていたときに 金子みすゞの詩の教材がありました。
「みんなちがってみんないい」です。
時を経ても、スッと心に入ってくる詩ですよね。
副教材として、子どもたちに 金子みすゞの詩集を読みました。
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わたしと小鳥とすずと―金子みすゞ童謡集
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どの詩も、みな やさしくて、あたたかい。
でも、私は 少し胸のあたりが、ギュッとするときがありました。
特にこの詩。
みんなを好きに
私は好きになりたいな、何でもかんでもみいんな。
葱も、トマトも、おさかなも、残らず好きになりたいな。
うちのおかずは、みいんな、母さまがおつくりになったもの。
私は好きになりたいな、誰でもかれでもみいんな。
お医者さんでも、烏でも、残らず好きになりたいな。
世界のものはみィんな、神さまがおつくりになったもの。
好きになりたい、という思い。
まぁるい世界への祈り。
とてもすてきなのだけど、私は 裏側にある 深い悲しみのようなものを強く感じました。
かわいらしい言い回しで書かれているけど、私には うつむいた少女の横顔が見えるような気がするのです。
もし、彼女に、
苦手なものは 残してもいいよ
お母さまに 感謝しなくてもいいよ
お注射いやだったら、逃げてもいいよ
嫌いなものを 嫌いって 言っていいよ
みんなを好きにならなくてもいいよ
「いやだ!」って 思ってもいいんだよ
と、言ったなら、どんな顔をするのだろう。
ものごとには、2つの側面があります。
コインの裏と表と同じように、善悪、好ききらい、光と闇…2つでセットです。
「ある」ものを「なかったこと」にしようとすると、苦しいなあ…。
当時感じた息苦しさは、そういうことなんだろうなあと思います。
©Thomas Leuthard
話は変わりますが、
私は、文章を書くことを生業のひとつとしていますが、ブログは仕事というよりは、自己表現です。
ホームページの時代から、もう20数年 ひとり言を発信しています。
今、感じていること、考えていることを 整理するために書いている感じ。
読んだ人が、何を思ってもいい、何を感じていもいい、そう思って書き続けています。
でも、反論はぜひ ご自分のブログでね
押さえきれない感情は、自分で処理してねん
と、思ってもいます。
発信する、ということは、とても楽しいもので、そのとき そのときの 読者が手をつないでくれます。
つながりが 網の目のように広がっていきます。
名前も知らないたくさんの手が、つながれているのを 感じます。
でも、稀にですが、私をあまり好きではない人の手が つながってくることもあります。
きらいならば、手を離せばいいのに、なぜか ギュッと握ってくるのです。
最初は、そういう人たちにも 私を好きになってもらいたい、
そう思って、私なりに 誠意を尽くして、わかってもらおうとしました。
が、たいてい それは平行線に終わり、最後は 手をすごい勢いで振り払って去っていくのです。
今、私が ネット上で表現をするときに 心がけているのは、
私を きらいだという人が ついてきても、そちらを見ないということ。
つながってくるのは全然かまわない。
私を 苦手でいることも、それもOK。
でも、私の視線は 私を好きでいてくれる人の方を 向いていく。
私が誰とつながるのかは、私が決められる、
相手の言い分を ものわかりのよい顔をして 聞かなくていい。
その人が私を苦手だと思うように、私がその人を苦手だと思っていい。
キミの方は、振り向かない。
そう決めてから、言いがかりのようなネガティブコメントが来ることは 本当に少なくなりました。
そもそも、ブログという「ひとり言」に対して アドバイスやら忠告やら、いらん。
いやなら読まなければいいだけだもん。
私とどう付き合っていくのかは、あなたが決められるのです。
心の中で批判しながらも、また読みに来てしまうときには、
自分の中に 何が起きているのかを眺めた方が、だんぜんおもしろいはず。
たとえばだけど、
批判したいんだなーとか、
自分の方が正しいと思いたいんだなーとか、
落ちぶれてないかと たまに確認しに来たいんだなーとか(笑)、
まあ、いろいろ、心の中に渦巻く言葉に 耳を傾けていくことです。
私に対して 悶々とするより、きっと 心がラクになれます。
そんなわけで、これからもブログを書き続けていきます。
すてきな人たちとのつながりを、かみしめながら。
いつもご覧くださって、ありがとうございます。
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忙しくて、お知らせ記事が書けない…
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4月下旬(神戸)