こんにちは。和久田ミカです。
先日、伊勢神宮に行ったとき、まだまだ日本人にも、
「目に見えないものを敬う気持ち」
があるんだなあと思いました。
手水のところで、隣のギャルが、
「みんな!ここで清めようぜ~!」
って言ってて、ほほえましかったけど、
目に見えないけど そこに神聖さや、それを汚してはいけないという気持ちがあるのですね。
カンボジアに行ったときに、印象的だったのが どんな家でも、祭壇があることです。
ここは、東南アジア最大の湖、トンレサップ湖。
本格的な雨期になると、湖面が鏡のようになるそう。
小さな遊覧船がたくさん行きかっています。
ここには、水上に暮らす人たちがいっぱいいます。
ガイドさん曰く、
「朝、魚をとり、市場に売りに行き、それで生計を立てている。とても貧しい」
そう。
カンボジアは基本的に仏教の国ですが、水上に教会もあり、炊き出しをしている表示も目に入りました。
でもね。
どの家を見ても、どの家も見ても、目立つのは 祭壇なんです。
どんなに貧しい暮らしをしていても、ピカピカにして 神さまや仏さまを祭っています。
貧しさを呪うのではなく、その中で 得られたものに 感謝して暮らしているのだなあと感じました。
上の写真の家の外にも、祭壇↓
娘に、
「みんな 神様とともに暮らしているんだね。見えない何かに守られていると感じているんだね」
と話したところ、
「ふ~ん…私は、守られているなんて 思ったことない」
というとてもドライな返事が返ってきました。
そっかー
そっかー
そっかー…
私は、小さいころ、なんだか知らないけど すごく教会に行きたくて、部活が忙しくなるまでは 当たり前のように通っていました。
当たり前のように、生活の中に「神様」と「生きていることへの感謝」がありました。
でも、娘にはないんだ。
そっかー
そっかー
そっかー…
私は現在、特定の宗教は信じていないのですが、「大いなる存在」というものは 信じています。
いつも 守られていると思っていて、何かあると、
「神様ありがとうございます」
と 思う癖がついています。
昔、教会に行っていた名残ですね。
そうやって、「つながっている」という意識は、私の中では 大きな支えなのです。
よく「人が死ぬときは、みんなひとり」って 聞くけど、私の意識の中では 独りぼっちではないのですね。
つらいときも、怒りで心がどうにもならないときも、なかなか前が向けないときも、
意識の中に「誰かが見守ってくれている」という 小さな安心感がありました。
もちろん、今も。
だから。
娘が今、「私はひとりでがんばっている」という思いで 生きているなら、さみしいなあと感じます。
そこは 娘の生き方なので、私の方から アドバイスすることはないのですが…。
貧しくても 神様とつながっている 暮らし。
わずかなものでも 祭壇に上げて 感謝する生き方。
ガイドさんは、「貧しい」と あわれそうに言ったけど、
でも、私は ある意味 豊かだなあと感じました。
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