「一人でいるとき、何しているの?」と仕事でもプライベートでも聞かれる
大概、「本読んでるか、映画やドラマを観るか、気功やヨガをやっている」と答える
でもそれらは考えてみると、本当は一人きりの営みではない
本は誰か他者が書いたものだし、映画やドラマは大勢の人が結集した作品だし、気功やヨガも偉大な先達たちが残してくれたものだ
だからそれらに取り組んでいる間のときは、本当に一人とは言えない
少し考えれば必ず他者が見えてくる
だから僕の答えは嘘になる
じゃあ本当に一人のときって何をしているときだろうと思う
喫茶店で仕事について考えたり、本を読むのをキリのいいところで止める瞬間がある
そのときにふと自分がこの社会の住人であることをやめる
外から見れば茫然しているだけだ
だけど内的な感覚として、人の営みを人の営みの外側から見つめている
どこかの誰かがコーヒーを飲みながら誰かの悪口を言っている
どこかのお母さんが子どもに喫茶店のケーキを食べさせている
どこかの勤め人が電話で彼のクライアントと話している
どこかの女の子がネイルした自分の爪をうっとり見つめている
どこかの老夫婦が目的もなく見つめ合いながら視線と視線で愛撫し合っている
どこかの誰かである僕が、そんなどこかの誰かたちを見つめている
この経験は端的なもので、なぜそれを経験しているのかの理由はない
今僕がこれを経験しているのは「たまたま」に過ぎない
そう、たまたま、偶然、ランダム
だけどそんな偶然が、たまらなく愛おしい
そしてそんな愛おしさを遠くから感じるときに、自分は本当に一人なんだと思う
世界が世界であること、社会が社会であること、彼が彼であること、彼女が彼女であること、あなたがあなたであること、自分が自分であること
それらに理由はなくて、ただ端的にそのようになっている事実性に心と身体を開く瞬間があるだけだ
浄土教の中に往相還相という言葉がある
阿弥陀如来が悟った後、衆生(人々)とともに生きるということを指す
僕は最初にこの言葉を知ったとき、疑問に思っていたことがある
「悟ったのなら、現世に戻ってくる理由なんてないよな」
そう思っていたけど、しかし今ならその理由が少し分かる
僕は悟ったことはないけど、抽象度が上がった経験なら多少はある
抽象度が上がって、その後に人の営みを見ると、それがこれまでとは別様に鮮やかに美しく見える
そしてその度に「自分の住んでいた世界はこんな場所だったんだな」と愛おしさを覚える
おそらくその愛おしさこそが、阿弥陀如来が衆生と生きる理由だと思う
僕はブログでも講座でも抽象度が上がってもそれ自体に意味はない、と説く
なぜならそれは一人きりのときに訪れることだから
一人きりじゃ何も意味がない
意味は他者を介在して初めて成り立つものだ
だからこそ社会に機能を果たすことで意味をなす必要がある
そして社会に機能を果たすことの端的な動機となるのが、愛おしさと、その愛おしさを遠くで見つめていることしかできないがゆえの寂しさだ
愛おしさと寂しさは裏表だと思う
愛おしいから寂しいし、寂しいから愛おしい
愛おしさと寂しさのどちらが先でどちらが後かということではなく、どちらも同時に存在する
そしてそれは本当に一人になったときにしかわからない
一人になるには、抽象度を上げるしかない
少しでも抽象度が上がれば、自分にも他人にも社会にも存在することに理由がないことがわかる
生きることにも死ぬことにも理由はない
だけどとりあえず生きるのは、人と人の営み、そして社会と世界に対する愛おしさと寂しさに貫かれているから
僕が一人になったときにやっていることは、このようなものなのかもしれない