「よく、死ぬ直前に昔のことが走馬灯のように、とか言うでしょう?」
隣を歩いている黒い犬が私に言った。薄暗い、狭いとまでは言えないが、少し窮屈な感じがする廊下をゆっくり歩いていた。
「それですよ。」
黒い犬はそう付け加えた。
「…じゃ、死ぬ直前?」
「まぁ、そうですが…」
まだ状況が把握できていない。とっさに出た私の問いに黒い犬は続ける。
「最後に、少しだけですが、生きるかどうかの選択があります。」
黒い犬が説明し終わると同時に、目の前に扉が現れた。突然現れたのか、もともとそこにあって私たちがたどり着いたのかは解らない。ただ、私の問いと黒い犬の返答の時間だけ歩く仕組みになっていたような、そういうシナリオ通りのことをやらされた気分だった。
「とにかく今は自分の人生を確認するときです。」
促されて私は扉を開けた。
八畳ほどの部屋だった。中央やや後方に椅子、その横に小さなテーブル、さらにその横に映写機が準備されていた。
前方にスクリーン、あとはスクリーン左右の天井の隅にスピーカーが設置されている以外何もない部屋だった。
「どんな映画よりも面白いですよ。
何せ自分の人生の記録ですから。」
私の居場所はその椅子以外になさそうだった。
「質問があったらして下さい。
私がどんな謎にも答えますから。」
「どんな謎にも?」
「ええ。」
黒い犬はさらに黒い目をギロリとさせて返事をした。私は初めてその黒い犬の顔をはっきり見た。
「電源はその黒いスイッチです。」
私はテーブル越しに少し体を伸ばしてそのスイッチに触れた。
部屋は暗くなり、映写機がカタカタ音をたてると同時に、ザーッというテレビの砂嵐のような音がした。スクリーンは暗いままのようだったが、よく見ると何かが少し動いているようでもあった。
次第に砂嵐の中からハッハッという激しい息遣いが聞こえてきた。
「これは?」
「あなたが生まれる瞬間です。」
急にスクリーンが明るくなり、オギャーともウギャーともつかない産声があがった。
「何で泣いたか覚えていますか?」
「いや…」
「羊水から出て呼吸するためですよ。
それに母親の関心を引くため。
それから無事に生まれた安心感と、狭いところから抜け出した開放感、母親から離れた不安感です。」
そう言われている間、スクリーンはもやもやした光と周囲の音声のみから徐々に映像がはっきりしてきた。
「こんな具合で質問があれば答えます。」
黒い犬がそう言った時には幼稚園に通う私がスクリーンに映っていた。
「あっ…」
女の子がスクリーンに映り、それに私が反応した。
「小学校2年生のとき好きだった子だ…」
「小3ですよ。」
「一緒に一回学級委員やったんだよな。
…この子俺のこと好きだったのかな?」
「いいえ。同じクラスの松田陽一が好きでした。」
「あ…そう…」
「理科の先生だ。中2かな?
卒業して一回年賀状出したんだけどなぁ。結婚できたのかな?」
「あなたが卒業して5年後に死にましたよ。」
「えっ?」
「交通事故で即死です。頭蓋骨骨折。」
「そうか…」
しばらく質問したくなくなった。黙々と私の人生が流れてゆく。
「あ…大学のときに付き合ってた…」
声を出さずにはいられなかった。
「…何で急にフラれたんだろ?」
「父親が病気で倒れたんです。」
「えっ!?」
思わず身を乗り出して黒い犬を見た。
「母親もいないし、下の兄弟も二人いて大変だったようです。」
黒い犬は淡々と話す。
「…なんで…あいつ俺に言わない…?」
質問したつもりではなかった。それでも黒い犬は答える。
「言いたくなかったんです。
あなたの家けっこう裕福でしたから。」
「…………」
「…全部…知っちゃっていいのかな?わざわざ隠してたことまで…」
「あなたの人生です。知る権利はあります。」
「でも、半分は他人の人生じゃ…」
「当然です。」
私が言い終わる前に黒い犬は言った。
「死ぬ前に全部知りたいと思いませんか?」
また黒い目をギロリとさせた。気が付けば私は汗をかいていた。今までなぜ平気だったのだろう?初めてこの黒い犬を怖いと思った。ひどく喉が渇いた。
「聞きたくなかったら質問しなくてもいいんですよ。」
また黙々と私の人生が流れる。音声よりも映写機のカタカタという音が頭に響いていた。
「カチンッ!」
急に映写機が止まり、部屋が明るくなった。
「ちょっと休みましょう。
左手の袋にポップコーンとコーラがありますから良かったらどうぞ。」
いつのまにかテーブルに紙袋が置いてあった。私はすぐさまコーラのビンを開け、喉を鳴らしながら飲んだ。
「ふうっ…」
不思議と落ち着いた。だからだろうか、今更ながらの質問をした。
「だけど…あんた何で犬なの?」
「あなた、32歳のとき『生きる』っていう映画を見ました。」
「覚えてないな…」
「主人公がガンで死ぬ話です。」
「ああ…」
「『おあつらえむきに黒い犬だ』っていう台詞が出てきます。
おそらくそのイメージでしょう。」
「ふーん…」
既に私の中ではどうでもいい質問になっていた。生返事をしながらポップコーンを黒い犬にすすめた。
「こりゃどうも。」
「そういえば俺、母親の腹ん中にいた記憶があるんだよな。」
「私の範囲外ですね。どんなです?」
以外にもポップコーンを口に含みながら黒い犬が聞いてきた。
「…真っ暗だった。」
「なるほど。」
操作方法を教わったわけではないが、私は映写機のスイッチに手を伸ばし、また部屋の明かりが消えた。
『…それで俺、会社起こそうかと思って…
お前も手伝わないか?今の会社辞めてさ。きっと今よりも…』
スクリーンでは、とある居酒屋で大学時代の同級生が話をしている。名前は確か吉野だった。
「一緒にやってても成功した?」
「ええ…」
「そうか…でも朋子とも結婚してたし、子供もできちゃってたしな。」
出産シーン、壮太と遊ぶ朋子、布団で俺が絵本を読んであげているといった映像が流れた後、徐々に朋子のイライラが目立ってきた。
『子供なんか産まなきゃよかった。仕事したい…』
「お前から仕事やめるって言ったんだぞ…」
思わずスクリーンの中の朋子に言い返した。そのときにも同じことを言ったような気がする。
「生きていたときと同じことを言ってますね。」
やっぱり…
「はじめは覚悟していたんだ…
でも女の人があんなこと言うか?」
「あなたは母性を絶対視しすぎています。」
「もし、壮太がいなかったら離婚は…」
「その場合は…」
「待った!!」
黒い犬の言葉を遮った。
「…いい…言わなくて…」
そのまま目を伏せてしまった。
「…見ないんですか?」
「後はだって、あいつは仕事をとって、壮太をおいて出ていって、壮太が大学行って、就職して、結婚して…
でもそれって俺の人生じゃないよな…」
「まあ、そうとも言えます。」
それっきり二人とも黙った。
「もうすぐ終わりですよ。」
どれくらい時間がたったか、黒い犬が言った。スクリーンには記憶に新しい天井が映っている。
「病院か?」
「はい。」
「俺が倒れたのは、過労?」
「はい。でも死因はガンです。」
「あっ!」
「カチンッ!」
私の発声とともに映写機は音を立てて止まった。
「最後に一瞬だけ映ったのは現在です。」
「壮太夫婦と…朋子がいた…?」
「はい、一瞬あなたの意識が戻ったのです。」
「なんで朋子が病院を…?」
「たまに息子さんと会っていたんです。
一言話すくらいなら生き返れますが…」
そういえば最初に言われていた。
「行きますか?」
「行く…」
「朋子…」
そこには私の声に驚いた家族の顔があった。目に涙をためていた。
「…あれから幸せだった?」
朋子の涙が溢れ、うなずくと同時に声にならない返事が聞こえた。私は満足した。
「…本当に一言だな。」
「じゃ、フィルムを外して下さい。」
もとの部屋に戻っていたが私は落ち着いていた。
「次の手続きに必要なんで…」
黒い犬も相変わらず淡々と話を進めている。
「あいつ、本当に幸せだったのかな?」
黒い犬はまたギロリと私を見た。
「いや…言わなくていいや。」
その目はもう怖いと思わなかった。
アパートに帰ると、シオリの姿はどこにもなくなっていた。バスタブには彼女の体温を残したようにぬるくなった水だけがあって、昨日の夜や今朝のことが幻のようだった。本当のところ、シオリは幻だったのかもしれない。しかし、できることなら昨夜のうちに消えてくれればよかった。それなら、すべては酔っ払いの妄想として片付けることができたというのに。
シオリのいなくなったバスタブをぼんやり見つめていると、底に銀色の球が沈んでいるのを見つけた。拾い上げてみると、真珠だった。かなり大きい。標準的な真珠のサイズは知らないが、十円玉の直径ほどもある真珠は小さくはないだろう。どうやら人魚の涙が真珠になるというのは本当だったらしい。もっともシオリのことだから、どこかでくすねてきた模造パールを置いていっただけのことかもしれないが。ともかく人魚の世界にも一宿一飯の恩義に報いるぐらいの良識はあったようだ。売ればいくらになるだろう。そう思ったが、僕の性格からして結局売れないだろうなとも思った。
喪失感とも安堵感ともつかない感覚を覚えながら、僕はバスタブの栓を抜いた。ゴボゴボと音をたてて、渦を巻きながら水が流れて落ちていった。その音を聞きながら、バスルームを出て居間に移った。
机を見ると、そこに置いてあったはずの本が消えていた。三百円で購入した『人魚』はシオリ同様どこかへ消え去って、なんの痕跡もとどめていなかった。やっぱりな、と思った。大学で雨上がりの空を見たときから、こうなる予感があった。おそらく、雨がシオリを人魚に変えるのだろう。彼女本人がそれを知っていたのかどうかは、わからなかった。いずれにせよ、いろいろ調べるだけ無駄だったというわけだ。もう少し早く気付いてしかるべきだった。どうも、僕は肝心なところで抜けている。
真珠を机に転がした。するすると滑るように転がって、湯飲み茶碗にぶつかった。思いがけず、いい音が響いた。僕は焼酎を飲むことにした。平日は飲まないようにしているのだが、今日みたいな日は飲んでもいいだろう。まだ早い時間だったが、どうにも飲まずにいられない気分だった。湯飲み茶碗を洗い、冷蔵庫から漬物を出してきて、昨日と同じようにやり始めた。どういうわけか、昨日のことのはずが一ヶ月も前のことのように思えた。
ほどよく酔いがまわったところで、ギターを持ってきた。まだ昨夜の痛みが残る指で、シオリに教わった曲を弾いてみた。人間の手にもどうにか可能なほどの曲だったが、あいにく僕の腕では無理だった。それでも、酒を飲むたびに練習していればいつかは弾けるようになるだろう。いつになるかは見当もつかないが。
その夜、僕は記憶がなくなるまで酒を飲み、指に血がにじむまでギターを弾いた。そして、アルコール漬けになった思考の中で一つの決心をした。昨日からのことを本当に小説にしてやろうと。うまくすれば、良い話が書けそうだ。タイトルは──。『雨の日の人魚』にしよう。これは名案だ。つらつらとそんなことを考えるうち、いつのまにか意識が消えていった。
その後、雨が降る日にはなんとなく例の古書店を訪ねるようになった。ふだんは必ずシャッターを閉じている店だったが、雨天の日には例外なくシャッターを上げていた。曜日や時間帯は関係なかった。雨さえ降っていれば、午前零時でも開いていた。六月いっぱい続いた梅雨のうち何度となく訪れたが、結局その店で『人魚』が見つかることはなかった。店主にも色々と訊いてみたものの、無愛想なその男からは決してまともな答えが返ってこなかった。
もっとも、『人魚』を見つけてそれをどうしたいのかというと、僕自身よくわからなかった。もう一度シオリに会いたいという気持ちは、それほど大きくなかった。そういう気持ちになるような関係まで踏み込まなかったし、万一彼女が人間になったとしても僕の理想からは遠すぎた。だから、必死になって『人魚』を探すようなことはなかった。ただ、雨の日に喫茶店ヘミングウェイへ行く途中で軽く古書店を覗いてみるだけだった。
そうこうするうち、冗談のように書いていた『雨の日の人魚』は最後まで書き上がってしまった。ボールペンで書かれた汚い手書きの原稿用紙は、四十枚ほどになった。松田に読んでもらうとあまり良い評価はもらえなかったが、級友の女友達には例外なく好評だった。皆、口をそろえてシオリの性格が良いと言った。まったく理解できなかった。架空の世界の話だからそんなことが言えるのだろう。実際に会話を交わしたら、むしろ女性たちのほうが先にケンカになるだろうに。
小説のほうは一ヶ月で書き終えたが、ギターのほうはというとあまり進歩がなかった。それでも、以前よりはまじめにギターに接するようになった。おかげで週末の酒量は減った──のならよかったが、なぜか逆に増えた。ギターと酒は相性がいいのだということを改めて確信した。
ギターは上達しないままアルコールにだけはどんどん強くなり、やがて長かった梅雨もあけて夏になり、夏休みが終わって秋が訪れた。この年の秋は短かった。例年より早く冬日がやってきて、年が明けるとすぐに大雪が降った。殊に一月三日は早朝から記録的な豪雪に見舞われて、年明け早々テレビや新聞は大騒ぎだった。
その日、僕はというとクリスマスの数日前に一大決心で告白して付き合い始めたばかりの女の子と、仲良くギターなどを弾いていた。由香里という名だが、周囲の誰もがユカと呼んでいた。喫茶店ヘミングウェイのウェイトレス。おとなしい娘で、ギターが弾ける以外はシオリと共通する部分など一つもなかった。髪は黒いし、なにより会話が上品だ。理想のカノジョだが、どこか物足りないような気がするのはシオリの残した悪影響だと思うことにした。
ユカは『雨の日の人魚』を読んで、「悲しいお話だね」と言った。実話だとは伝えなかった。ただ、机の引き出しにしまった真珠を見せたらどういう顔をするだろうと想像をめぐらすのが、楽しみの一つになった。いつかユカと結婚する日が来たとして、シオリの残した真珠で指輪を作ってやるのは悪い考えではないだろう。その前に一度、本物かどうかを確かめる必要はありそうだったが。
新年三日めの大雪の午後、ユカの希望で僕たちは街へ出かけることになった。初詣に行きたいというのだ。特別大きなわけではないが、周辺の町からも参拝者がくるような、その程度の神社。ふだんは老人ばかりで活気のかけらもないこの街だが、年始の季節だけは異様なほどの活況を呈する。初詣のためだけに存在するような街なのだ。にも関わらず、今年は元日から降り始めた雪のためか、参拝者も少なく街全体が沈んだムードに包まれているようだった。
例年は人であふれる神社への大通りも、今年の一月三日は一面の雪に覆われて、人影もまばらだった。僕はユカと手をつないで、除雪された歩道を歩いた。ユカがそうしたいと言うので、カサは一本しか持ってこなかった。ときどき自己主張する彼女を見るたびに、シオリを思い出した。半年が過ぎて、もう会ってみたいとは思わなかった。薄情なものだ。
ふと足が止まった。古本屋の前だった。いつも閉じられているシャッターが開いていた。雨の少ない真冬の季節には、久しぶりのことだった。参拝者目当てというわけではないだろう。雪が降っているから開けたのに違いない。ここは、そういう店だった。僕はユカを連れて店に入った。彼女は何も言わず、黙ってついてきた。
我知らず、目を疑った。半年前に『人魚』を見つけたのとまったく同じ場所に、同じ装丁の本が置かれていたのだ。薄い青色の布張りの装丁に、銀糸で刻まれた二文字の題名。手に取って開いてみると、どのページも真っ白だった。まるで外の風景のように。真ん中あたりのページに、栞が挟まれていた。どこも折れてはいなかった。シオリではないのだということが、それでわかった。──開く前からわかっていたことだったが。
本を閉じて、もとあった場所にもどした。今の僕には必要なさそうだった。それに、題名が違う。書架にもどしたその本の背表紙には、銀糸の刺繍でこう書かれていた。
『雪女』
変わった本だね、とユカが言った。まったくだ、と答えて店を出た。無愛想な店主の含み笑いが聞こえたような気がしたが、すぐに聞こえなくなった。降りつづける雪は、当分やみそうになかった。
シオリのいなくなったバスタブをぼんやり見つめていると、底に銀色の球が沈んでいるのを見つけた。拾い上げてみると、真珠だった。かなり大きい。標準的な真珠のサイズは知らないが、十円玉の直径ほどもある真珠は小さくはないだろう。どうやら人魚の涙が真珠になるというのは本当だったらしい。もっともシオリのことだから、どこかでくすねてきた模造パールを置いていっただけのことかもしれないが。ともかく人魚の世界にも一宿一飯の恩義に報いるぐらいの良識はあったようだ。売ればいくらになるだろう。そう思ったが、僕の性格からして結局売れないだろうなとも思った。
喪失感とも安堵感ともつかない感覚を覚えながら、僕はバスタブの栓を抜いた。ゴボゴボと音をたてて、渦を巻きながら水が流れて落ちていった。その音を聞きながら、バスルームを出て居間に移った。
机を見ると、そこに置いてあったはずの本が消えていた。三百円で購入した『人魚』はシオリ同様どこかへ消え去って、なんの痕跡もとどめていなかった。やっぱりな、と思った。大学で雨上がりの空を見たときから、こうなる予感があった。おそらく、雨がシオリを人魚に変えるのだろう。彼女本人がそれを知っていたのかどうかは、わからなかった。いずれにせよ、いろいろ調べるだけ無駄だったというわけだ。もう少し早く気付いてしかるべきだった。どうも、僕は肝心なところで抜けている。
真珠を机に転がした。するすると滑るように転がって、湯飲み茶碗にぶつかった。思いがけず、いい音が響いた。僕は焼酎を飲むことにした。平日は飲まないようにしているのだが、今日みたいな日は飲んでもいいだろう。まだ早い時間だったが、どうにも飲まずにいられない気分だった。湯飲み茶碗を洗い、冷蔵庫から漬物を出してきて、昨日と同じようにやり始めた。どういうわけか、昨日のことのはずが一ヶ月も前のことのように思えた。
ほどよく酔いがまわったところで、ギターを持ってきた。まだ昨夜の痛みが残る指で、シオリに教わった曲を弾いてみた。人間の手にもどうにか可能なほどの曲だったが、あいにく僕の腕では無理だった。それでも、酒を飲むたびに練習していればいつかは弾けるようになるだろう。いつになるかは見当もつかないが。
その夜、僕は記憶がなくなるまで酒を飲み、指に血がにじむまでギターを弾いた。そして、アルコール漬けになった思考の中で一つの決心をした。昨日からのことを本当に小説にしてやろうと。うまくすれば、良い話が書けそうだ。タイトルは──。『雨の日の人魚』にしよう。これは名案だ。つらつらとそんなことを考えるうち、いつのまにか意識が消えていった。
その後、雨が降る日にはなんとなく例の古書店を訪ねるようになった。ふだんは必ずシャッターを閉じている店だったが、雨天の日には例外なくシャッターを上げていた。曜日や時間帯は関係なかった。雨さえ降っていれば、午前零時でも開いていた。六月いっぱい続いた梅雨のうち何度となく訪れたが、結局その店で『人魚』が見つかることはなかった。店主にも色々と訊いてみたものの、無愛想なその男からは決してまともな答えが返ってこなかった。
もっとも、『人魚』を見つけてそれをどうしたいのかというと、僕自身よくわからなかった。もう一度シオリに会いたいという気持ちは、それほど大きくなかった。そういう気持ちになるような関係まで踏み込まなかったし、万一彼女が人間になったとしても僕の理想からは遠すぎた。だから、必死になって『人魚』を探すようなことはなかった。ただ、雨の日に喫茶店ヘミングウェイへ行く途中で軽く古書店を覗いてみるだけだった。
そうこうするうち、冗談のように書いていた『雨の日の人魚』は最後まで書き上がってしまった。ボールペンで書かれた汚い手書きの原稿用紙は、四十枚ほどになった。松田に読んでもらうとあまり良い評価はもらえなかったが、級友の女友達には例外なく好評だった。皆、口をそろえてシオリの性格が良いと言った。まったく理解できなかった。架空の世界の話だからそんなことが言えるのだろう。実際に会話を交わしたら、むしろ女性たちのほうが先にケンカになるだろうに。
小説のほうは一ヶ月で書き終えたが、ギターのほうはというとあまり進歩がなかった。それでも、以前よりはまじめにギターに接するようになった。おかげで週末の酒量は減った──のならよかったが、なぜか逆に増えた。ギターと酒は相性がいいのだということを改めて確信した。
ギターは上達しないままアルコールにだけはどんどん強くなり、やがて長かった梅雨もあけて夏になり、夏休みが終わって秋が訪れた。この年の秋は短かった。例年より早く冬日がやってきて、年が明けるとすぐに大雪が降った。殊に一月三日は早朝から記録的な豪雪に見舞われて、年明け早々テレビや新聞は大騒ぎだった。
その日、僕はというとクリスマスの数日前に一大決心で告白して付き合い始めたばかりの女の子と、仲良くギターなどを弾いていた。由香里という名だが、周囲の誰もがユカと呼んでいた。喫茶店ヘミングウェイのウェイトレス。おとなしい娘で、ギターが弾ける以外はシオリと共通する部分など一つもなかった。髪は黒いし、なにより会話が上品だ。理想のカノジョだが、どこか物足りないような気がするのはシオリの残した悪影響だと思うことにした。
ユカは『雨の日の人魚』を読んで、「悲しいお話だね」と言った。実話だとは伝えなかった。ただ、机の引き出しにしまった真珠を見せたらどういう顔をするだろうと想像をめぐらすのが、楽しみの一つになった。いつかユカと結婚する日が来たとして、シオリの残した真珠で指輪を作ってやるのは悪い考えではないだろう。その前に一度、本物かどうかを確かめる必要はありそうだったが。
新年三日めの大雪の午後、ユカの希望で僕たちは街へ出かけることになった。初詣に行きたいというのだ。特別大きなわけではないが、周辺の町からも参拝者がくるような、その程度の神社。ふだんは老人ばかりで活気のかけらもないこの街だが、年始の季節だけは異様なほどの活況を呈する。初詣のためだけに存在するような街なのだ。にも関わらず、今年は元日から降り始めた雪のためか、参拝者も少なく街全体が沈んだムードに包まれているようだった。
例年は人であふれる神社への大通りも、今年の一月三日は一面の雪に覆われて、人影もまばらだった。僕はユカと手をつないで、除雪された歩道を歩いた。ユカがそうしたいと言うので、カサは一本しか持ってこなかった。ときどき自己主張する彼女を見るたびに、シオリを思い出した。半年が過ぎて、もう会ってみたいとは思わなかった。薄情なものだ。
ふと足が止まった。古本屋の前だった。いつも閉じられているシャッターが開いていた。雨の少ない真冬の季節には、久しぶりのことだった。参拝者目当てというわけではないだろう。雪が降っているから開けたのに違いない。ここは、そういう店だった。僕はユカを連れて店に入った。彼女は何も言わず、黙ってついてきた。
我知らず、目を疑った。半年前に『人魚』を見つけたのとまったく同じ場所に、同じ装丁の本が置かれていたのだ。薄い青色の布張りの装丁に、銀糸で刻まれた二文字の題名。手に取って開いてみると、どのページも真っ白だった。まるで外の風景のように。真ん中あたりのページに、栞が挟まれていた。どこも折れてはいなかった。シオリではないのだということが、それでわかった。──開く前からわかっていたことだったが。
本を閉じて、もとあった場所にもどした。今の僕には必要なさそうだった。それに、題名が違う。書架にもどしたその本の背表紙には、銀糸の刺繍でこう書かれていた。
『雪女』
変わった本だね、とユカが言った。まったくだ、と答えて店を出た。無愛想な店主の含み笑いが聞こえたような気がしたが、すぐに聞こえなくなった。降りつづける雪は、当分やみそうになかった。
昼過ぎに目が覚めると、雨はまだ降り続けていた。やや落ち着いてきた雨音を聞きながら、ベッドで仰向けになったまま昨夜のことを思い出してみた。
古書店で買った奇妙な本の中から紙切れが出てきて、それが人魚になって──。ギターを持ち出したあたりから記憶があいまいだった。だいぶ飲んだようで、あきらかに二日酔いだった。ふと不安になった。まさか、あれはすべて夢の中のできごとだったのでは。そう思った。
あわててバスルームを覗いてみると、そこには誰もいなかった。──ということになれば、なにも考えずに一日を過ごせるはずだった。しかし、あいにくなことにというべきか幸いなことにというべきか、僕の頭はそこまでおかしくなってはいなかった。
昨夜の酒盛りの結果を映し出すかのように、バスタブには亜麻色の髪の人魚が腕を枕にイビキをたてていた。洗い場の床には焼酎の瓶が一本と、ラムのボトルが二本、空になって転がっている。どうりで二日酔いにもなるはずだ。
寝ているのをいいことに、改めてシオリを観察してみた。驚くほどの美人だ。腰まで届くサラサラの髪。やや吊り上がった柳眉に切れ長の目。尖った鼻と薄い唇が、冷たい印象を与える。くっきりと浮かんだ鎖骨の先から、陶器のような光沢を放つ腕が伸びて──。
なんの前触れもなく、シオリが顔を上げた。とっさに目をそらしたが遅かった。
「カズヤ。あなた、いま見惚れてたでしょ」
「い、いや。見てない」
声が裏返った。見ていましたと答えたようなものだった。シオリの背中が大きく反り返って、尾びれが水面から伸び上がった。水でもかけられるかと思ったが、そうではなかった。単にノビをしただけのようだった。
「まぁいいけど。おはよう」
「あ、あぁ」
「『あぁ』ってことないでしょ。朝は『おはよう』じゃないの?」
「もう朝じゃないよ」
「じゃあ、こんにちはね」
「それはちょっとヘンだ」
「それじゃ、こんばんは」
「もっとヘンだ」
漫才をやる気はなかったので、本題を切り出した。
「僕はこれから学校に行かないといけないんだけど。その間、シオリはどうする?」
「ここで寝てる」
「退屈じゃない?」
「退屈って、どういう意味?」
シオリの目が、興味津々といった具合に丸くなった。退屈という概念自体がないのかもしれない。僕は会話を切り上げて大学へ行くことにした。二日酔いの体に埃臭い私鉄の車両は厳しいが、今日の午後にはどうしても欠席できない講義が入っている。加えて、図書室に用があった。
「図書室?」
「本がたくさん置いてあるところだよ」
「それぐらい知ってるわよ。図書室になんの用があるのか訊いたの」
「キミを栞にもどす方法を調べようと思って」
「なによ。まだそんなこと言ってんの? ゆうべ、あれだけ楽しんだくせに」
「一緒に酒飲んでギター弾いただけだろ」
「ひどい。あたしの胸にさわったことも覚えてないの?」
シオリが両手で乳房を覆った。どうも彼女は、こういう悪ふざけが好きなようだ。どこでもこうなのだろうか。中には冗談の通じない相手もいると思うのだが。
「絶対にそんなことはしてない」
「した」
「してない」
たしかに記憶はおぼろだったが、僕がそういう人間でないことは自分自身がよく知っていた。不毛な言い合いは、すぐにシオリが折れて終わった。
「ねぇ、ひとつ訊きたいんだけど。カズヤってホモなの?」
「なにを言い出すんだよ、いきなり」
「だって、あたしと一晩一緒にいてなにもなかった男なんていないわよ。それとも、どこかに障害でもあるの?」
「なにもないよ。世の中の男がおかしいだけだ」
僕は言い切った。おそらく、おかしいのは僕のほうだ。人魚と言えども、上半身は人間なわけだからいろいろやりようはある。シオリは「ふぅん」と言ったきり、僕の顔を見つめたままだった。なにか、理解できないものを見るような目だった。
「とにかく僕は学校に行くから。おとなしくしててくれよ」
言い含めて、バスルームを出た。時間がなかった。顔を洗って歯を磨き、服を替えてカバンにノートや教科書を詰め込むと、急いでアパートを出た。靴を履くとき「行ってらっしゃい」という声を聞いたのには、なぜだか懐かしいような嬉しいような気分になった。
雨の中をバスに揺られ、どうにか遅刻せずに済んだ。講義はひどく退屈な代物で、居眠りしないよう集中しているだけで終わってしまった。講義の間にペットボトルの烏龍茶を二本飲んだ。それで、二日酔いがだいぶラクになった。
講義のあとで、図書室に足を運んだ。僕の大学の図書室はちょっとしたもので、学外からも利用者が訪れる。膨大な蔵書の中からアンデルセンの『人魚姫』を探して読んだ。次に安部公房の『人魚伝』を読み、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を読んだ。どれも暗い物語だった。読まないほうが良かったかもしれない。
「よう、山本」
不意に、声をかけられた。振り向くと、松田が立っていた。高校時代からの友人だ。おそらく、彼もまたシオリにかかれば「冴えない名前」になること間違いなしだ。ただし、彼は僕より遥かに賢い。女性の扱いにも長けている。一方的にやられることはないだろう。
「未明か。珍しいもの読んでるな」
松田が僕の手元を覗き込んだ。
「ちょっと事情があってね」
「どんな事情だ? 面白い話だったら聞かせてくれよ」
松田は隣に腰を降ろした。机に置かれた雑誌は、ナショナルジオグラフィックの最新号だった。彼は文系の人間だが、理系の知識にも精通している。雑学の知識も豊富だ。相談相手としては申し分なかった。
「最近、また小説を書いてるんだ」
そう前置きして、事情を話した。古書店で買った奇妙な本の栞から人魚が出てきて、自宅のバスタブを占領している。そういう小説なのだと説明した。酒が好きなところや神技のようなギターなど、すべて話した。小説の中のできごとだということにして。
「で、人魚を栞にもどす方法を考えてるんだ。名案はないかな」
「変わった話を書いてるな。俺なら人間にしてやるけどなぁ」
松田は眼鏡のレンズを拭きながら、そう言った。
「それができれば苦労しないよ」
「シナリオを書き換えればいいだろうに」
「いや、それはできないんだ。栞から人魚が出てきただけでも馬鹿げた話なのに、その人魚を人間にするなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ。できれば栞にもどして丸くおさめたいんだよ」
「なるほど。たしかに人魚が人間になるんじゃ、ありきたりだよな。……しかし、栞にもどす方法か。難しいな、そいつは。近い話があったかな」
松田は真剣な表情で考え込んだ。映画監督をめざしている彼だから、物語のスジを考えるのは好きなのだ。読書量も半端なものではない。
「一つ思い出した。人魚じゃなくて悪いんだが、栞から亡霊が出てくる話なら聞いたことがある。やっぱり古書店から買ってきた本に挟まれてた栞で、出てきた亡霊が部屋に居つくってところまでは同じだ」
「最後はどうなった?」
「適当な本で幽霊を挟んでやると栞にもどった。で、本と一緒に焼かれた」
「あ、それは名案だ」
思わず手を叩いた。試してみる価値はある。ただし、焼くのはやめておこう。
「おいおい、剽窃する気かよ。そりゃマズイだろ」
「っと、そうか。その手は使えないってことだな。小説の中では」
松田の指摘はもっともだった。しかし、これは小説の話ではないのだ。実際に栞から人魚が出てきて、それで困っている。──いや、困っているというほどではないのだが。どうにかしなければいけないのは確かだ。
「盗作はやめとけよ。あとはそうだな……、栞紐が竜になる話がある。見かけは巨大な竜だったが、ハサミで切ると紐にもどった。そこで主人公は目を覚まして、夢の中の話だったことに気が付いた。で、手元の本を開くと栞紐が二つに切れていた……って話だ」
「残念ながら、夢の中の話じゃないんだよ」
「そうだったな。他には……ちょっと思いつかないな。関係ないけど、本の中から悪魔が出てくる話ならよく聞くよな」
「霊だの悪魔だの、ロクでもないものばかり出てくるなぁ。人魚ならマシなほうか」
亡霊が出てきてとりつかれるのに比べたら、美人の人魚がバスタブを占拠するぐらいは上等の部類だろう。問題は、その性格だったが。
「けどな、人の肉を食う人魚もいるぞ」
「あぁ、それは大丈夫だ。うちの人魚はケーキを食うから」
「しかし変わった設定にしたもんだよな。ぜんぜん人魚らしくないぞ、それ」
「まったく同感だよ」
思わず溜め息をついた。松田は少し怪訝そうな表情を見せたが、何も言わなかった。いかに頭の切れる彼でも、僕の部屋に人魚がいるとは思いもしなかったのだろう。
それにしても、小説を書いているというのは我ながらうまい言いわけだった。実際、僕はひまつぶしに詩や小説を書いたりするし、松田もそれを知っている。僕がどれだけ荒唐無稽な話をしたとしても、すべて作り話だと思うことだろう。罪悪感はあるが、キチガイだと思われるよりマシだった。
「ま、書き上げたら読ませてくれよ」
そう言って、松田はナショナルジオグラフィックを読みだした。人魚の話には、これ以上興味がないようだった。僕は松田推薦の北欧民話集を借り出して図書室を後にした。人魚の話が収録されているらしい。
校舎を出ると、すでに日も暮れて、昨日からの雨はやんでいた。強い風に押し流されていく灰色の雲をながめているうち、どこか漠然とした不安に苛まれた。何かの予感があった。あまり良くないことの起こる予感が。
ラムと焼酎を一本ずつ買って帰った。ケーキ屋には寄らなかった。代わりに『人魚』を買った古書店に寄ってみると、シャッターが閉じられていた。斜向かいの仏具店に入って、少しばかり話を聞いた。そして、その古書店が雨の日にしか開かれないということを知ったのだった。
古書店で買った奇妙な本の中から紙切れが出てきて、それが人魚になって──。ギターを持ち出したあたりから記憶があいまいだった。だいぶ飲んだようで、あきらかに二日酔いだった。ふと不安になった。まさか、あれはすべて夢の中のできごとだったのでは。そう思った。
あわててバスルームを覗いてみると、そこには誰もいなかった。──ということになれば、なにも考えずに一日を過ごせるはずだった。しかし、あいにくなことにというべきか幸いなことにというべきか、僕の頭はそこまでおかしくなってはいなかった。
昨夜の酒盛りの結果を映し出すかのように、バスタブには亜麻色の髪の人魚が腕を枕にイビキをたてていた。洗い場の床には焼酎の瓶が一本と、ラムのボトルが二本、空になって転がっている。どうりで二日酔いにもなるはずだ。
寝ているのをいいことに、改めてシオリを観察してみた。驚くほどの美人だ。腰まで届くサラサラの髪。やや吊り上がった柳眉に切れ長の目。尖った鼻と薄い唇が、冷たい印象を与える。くっきりと浮かんだ鎖骨の先から、陶器のような光沢を放つ腕が伸びて──。
なんの前触れもなく、シオリが顔を上げた。とっさに目をそらしたが遅かった。
「カズヤ。あなた、いま見惚れてたでしょ」
「い、いや。見てない」
声が裏返った。見ていましたと答えたようなものだった。シオリの背中が大きく反り返って、尾びれが水面から伸び上がった。水でもかけられるかと思ったが、そうではなかった。単にノビをしただけのようだった。
「まぁいいけど。おはよう」
「あ、あぁ」
「『あぁ』ってことないでしょ。朝は『おはよう』じゃないの?」
「もう朝じゃないよ」
「じゃあ、こんにちはね」
「それはちょっとヘンだ」
「それじゃ、こんばんは」
「もっとヘンだ」
漫才をやる気はなかったので、本題を切り出した。
「僕はこれから学校に行かないといけないんだけど。その間、シオリはどうする?」
「ここで寝てる」
「退屈じゃない?」
「退屈って、どういう意味?」
シオリの目が、興味津々といった具合に丸くなった。退屈という概念自体がないのかもしれない。僕は会話を切り上げて大学へ行くことにした。二日酔いの体に埃臭い私鉄の車両は厳しいが、今日の午後にはどうしても欠席できない講義が入っている。加えて、図書室に用があった。
「図書室?」
「本がたくさん置いてあるところだよ」
「それぐらい知ってるわよ。図書室になんの用があるのか訊いたの」
「キミを栞にもどす方法を調べようと思って」
「なによ。まだそんなこと言ってんの? ゆうべ、あれだけ楽しんだくせに」
「一緒に酒飲んでギター弾いただけだろ」
「ひどい。あたしの胸にさわったことも覚えてないの?」
シオリが両手で乳房を覆った。どうも彼女は、こういう悪ふざけが好きなようだ。どこでもこうなのだろうか。中には冗談の通じない相手もいると思うのだが。
「絶対にそんなことはしてない」
「した」
「してない」
たしかに記憶はおぼろだったが、僕がそういう人間でないことは自分自身がよく知っていた。不毛な言い合いは、すぐにシオリが折れて終わった。
「ねぇ、ひとつ訊きたいんだけど。カズヤってホモなの?」
「なにを言い出すんだよ、いきなり」
「だって、あたしと一晩一緒にいてなにもなかった男なんていないわよ。それとも、どこかに障害でもあるの?」
「なにもないよ。世の中の男がおかしいだけだ」
僕は言い切った。おそらく、おかしいのは僕のほうだ。人魚と言えども、上半身は人間なわけだからいろいろやりようはある。シオリは「ふぅん」と言ったきり、僕の顔を見つめたままだった。なにか、理解できないものを見るような目だった。
「とにかく僕は学校に行くから。おとなしくしててくれよ」
言い含めて、バスルームを出た。時間がなかった。顔を洗って歯を磨き、服を替えてカバンにノートや教科書を詰め込むと、急いでアパートを出た。靴を履くとき「行ってらっしゃい」という声を聞いたのには、なぜだか懐かしいような嬉しいような気分になった。
雨の中をバスに揺られ、どうにか遅刻せずに済んだ。講義はひどく退屈な代物で、居眠りしないよう集中しているだけで終わってしまった。講義の間にペットボトルの烏龍茶を二本飲んだ。それで、二日酔いがだいぶラクになった。
講義のあとで、図書室に足を運んだ。僕の大学の図書室はちょっとしたもので、学外からも利用者が訪れる。膨大な蔵書の中からアンデルセンの『人魚姫』を探して読んだ。次に安部公房の『人魚伝』を読み、小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を読んだ。どれも暗い物語だった。読まないほうが良かったかもしれない。
「よう、山本」
不意に、声をかけられた。振り向くと、松田が立っていた。高校時代からの友人だ。おそらく、彼もまたシオリにかかれば「冴えない名前」になること間違いなしだ。ただし、彼は僕より遥かに賢い。女性の扱いにも長けている。一方的にやられることはないだろう。
「未明か。珍しいもの読んでるな」
松田が僕の手元を覗き込んだ。
「ちょっと事情があってね」
「どんな事情だ? 面白い話だったら聞かせてくれよ」
松田は隣に腰を降ろした。机に置かれた雑誌は、ナショナルジオグラフィックの最新号だった。彼は文系の人間だが、理系の知識にも精通している。雑学の知識も豊富だ。相談相手としては申し分なかった。
「最近、また小説を書いてるんだ」
そう前置きして、事情を話した。古書店で買った奇妙な本の栞から人魚が出てきて、自宅のバスタブを占領している。そういう小説なのだと説明した。酒が好きなところや神技のようなギターなど、すべて話した。小説の中のできごとだということにして。
「で、人魚を栞にもどす方法を考えてるんだ。名案はないかな」
「変わった話を書いてるな。俺なら人間にしてやるけどなぁ」
松田は眼鏡のレンズを拭きながら、そう言った。
「それができれば苦労しないよ」
「シナリオを書き換えればいいだろうに」
「いや、それはできないんだ。栞から人魚が出てきただけでも馬鹿げた話なのに、その人魚を人間にするなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ。できれば栞にもどして丸くおさめたいんだよ」
「なるほど。たしかに人魚が人間になるんじゃ、ありきたりだよな。……しかし、栞にもどす方法か。難しいな、そいつは。近い話があったかな」
松田は真剣な表情で考え込んだ。映画監督をめざしている彼だから、物語のスジを考えるのは好きなのだ。読書量も半端なものではない。
「一つ思い出した。人魚じゃなくて悪いんだが、栞から亡霊が出てくる話なら聞いたことがある。やっぱり古書店から買ってきた本に挟まれてた栞で、出てきた亡霊が部屋に居つくってところまでは同じだ」
「最後はどうなった?」
「適当な本で幽霊を挟んでやると栞にもどった。で、本と一緒に焼かれた」
「あ、それは名案だ」
思わず手を叩いた。試してみる価値はある。ただし、焼くのはやめておこう。
「おいおい、剽窃する気かよ。そりゃマズイだろ」
「っと、そうか。その手は使えないってことだな。小説の中では」
松田の指摘はもっともだった。しかし、これは小説の話ではないのだ。実際に栞から人魚が出てきて、それで困っている。──いや、困っているというほどではないのだが。どうにかしなければいけないのは確かだ。
「盗作はやめとけよ。あとはそうだな……、栞紐が竜になる話がある。見かけは巨大な竜だったが、ハサミで切ると紐にもどった。そこで主人公は目を覚まして、夢の中の話だったことに気が付いた。で、手元の本を開くと栞紐が二つに切れていた……って話だ」
「残念ながら、夢の中の話じゃないんだよ」
「そうだったな。他には……ちょっと思いつかないな。関係ないけど、本の中から悪魔が出てくる話ならよく聞くよな」
「霊だの悪魔だの、ロクでもないものばかり出てくるなぁ。人魚ならマシなほうか」
亡霊が出てきてとりつかれるのに比べたら、美人の人魚がバスタブを占拠するぐらいは上等の部類だろう。問題は、その性格だったが。
「けどな、人の肉を食う人魚もいるぞ」
「あぁ、それは大丈夫だ。うちの人魚はケーキを食うから」
「しかし変わった設定にしたもんだよな。ぜんぜん人魚らしくないぞ、それ」
「まったく同感だよ」
思わず溜め息をついた。松田は少し怪訝そうな表情を見せたが、何も言わなかった。いかに頭の切れる彼でも、僕の部屋に人魚がいるとは思いもしなかったのだろう。
それにしても、小説を書いているというのは我ながらうまい言いわけだった。実際、僕はひまつぶしに詩や小説を書いたりするし、松田もそれを知っている。僕がどれだけ荒唐無稽な話をしたとしても、すべて作り話だと思うことだろう。罪悪感はあるが、キチガイだと思われるよりマシだった。
「ま、書き上げたら読ませてくれよ」
そう言って、松田はナショナルジオグラフィックを読みだした。人魚の話には、これ以上興味がないようだった。僕は松田推薦の北欧民話集を借り出して図書室を後にした。人魚の話が収録されているらしい。
校舎を出ると、すでに日も暮れて、昨日からの雨はやんでいた。強い風に押し流されていく灰色の雲をながめているうち、どこか漠然とした不安に苛まれた。何かの予感があった。あまり良くないことの起こる予感が。
ラムと焼酎を一本ずつ買って帰った。ケーキ屋には寄らなかった。代わりに『人魚』を買った古書店に寄ってみると、シャッターが閉じられていた。斜向かいの仏具店に入って、少しばかり話を聞いた。そして、その古書店が雨の日にしか開かれないということを知ったのだった。