最近よく目や耳にする言葉がある。
「合理的に働きたい」という考え方。
与えられた仕事を、与えられた時間内で、そつなくこなす、給料分はきちんと働く。
それ以上のことはしないし、求めない。
この働き方自体を、否定するつもりはない。
むしろ、ひとつの完成されたスタイルだと思う。
しかし、疑問が浮かぶ。
それって「自分の成長」につながっている?
給料分だけ働く、という合理性
社会人になって数年。
営業チームの若手だった頃。
チームには若手もいれば、数字が伸び悩むメンバーもいた。
チーム目標を達成するために、自分のノルマ以上の売上をつくる。
誰かの穴を埋めるような動きも自然と増えていった。
正直に言えば、それが給料に反映された記憶はほとんどない。
「チームのため」という言葉は聞こえが良いが、合理的に考えれば、割に合わない行動だったと思う。
中堅社員になってからも同じだ。
自分発信で新しい取り組みを始め、周囲に協力を求めたことがある。
すべての人が前向きだったわけではない。
中にはこう考える人もいた。
「自分は給料分、十分に働いている」
それも正論だ。
余計な仕事はしない社会へ?
「余計なことはしない」
「自分の仕事の範囲を超えない」
それが社会のスタンダードになっていくのかもしれない。
それ自体が悪いわけではない。
だが、やはり問いは残る。
それで、自分は成長しているのだろうか?
限界を超える、という体験
営業チームで自分の責任以上の数字をつくる。
他人の仕事を手伝う。
新しいプロジェクトに首を突っ込む。
合理的に考えれば「それって、自分がやる仕事じゃないよね?」こう言われそうだ。
その通りだ。
それでもこうした行動は、自らの限界を一度、越えてみる体験だったのではないかと思う。
やってみて初めて分かる余白がある「意外とできるな」「まだ伸びしろがあるな」
それは、与えられた枠の中だけでは気づけないものだ。
成長は合理的に設計できるのか?
ここで立ち止まって考えてみる。
給料以上の仕事をする。
見返りがあるかどうか分からない挑戦をする。
他者の仕事を引き受ける。
これらは、短期的にはどう考えても非合理だ。
それでも、振り返ってみると、自分を成長させてくれたのは、こうした「割に合わない行動」だった。
合理性だけを基準にしていたら、おそらく選ばなかった行動ばかりだ。
成長とは「非合理性」の中にある
人は短期的な合理性に引きずられやすい。
目の前の損得を優先し、将来の可能性を過小評価してしまう。
「給料分だけ働く」という考え方は、短期的にはとても合理的だ。
一方で、
- 限界を超える
- 余白に気づく
- 機会を自らつくる
こうした体験は、短期合理性の外側にある。
だから思うのだが、人の成長とは、合理性を一度裏切った先にあるのではないか。
非合理な行動が、あとから合理になる
給料以上の仕事をしたからといって、必ず報われるわけではない。
だが、そこで得た視点、経験、人とのつながりは、あとになって効いてくることが多い。
その瞬間は非合理でも、時間が経つと「実は合理的だった」と気づく。
成長とは、短期合理性をあえて手放せた人にだけ訪れる、長期的な合理性なのかもしれない。
合理的に働くことは、悪くない。
だが、成長したいと願うなら、どこかで非合理な一歩を踏み出す必要がある。
さて、あなたは今、合理性の内側にいるだろうか?それとも少しだけ外に踏み出しているだろうか。
成長は、いつもその境界線の先にある。