先日、自民党総裁選で高市氏が「私はライフワークバランスという言葉を捨てます。働いて働いて働いて、国のために尽くします」と発言した。
その言葉を聞いて、組織のトップとしては極めて自然な宣言だと感じた。
しかし、世の中の反応は違った。
「働くことを強制している」「時代錯誤だ」といった批判が目立った。
この反応を見て、私はふと考えた。
いつから「働く」ということが“悪いこと”のように捉えられるようになったのだろうか?
「働く=美徳」であった日本の感性
日本では、古来より「働く」ことは“徳”であった。
「はたらく」という言葉の語源には「はた(他)をらく(楽)にする」という意味があるとも言われる。
つまり「他者を楽にするために動く」ことが働くの本質だった。
戦後の日本社会でも、「働くこと=誇り」であり、高度経済成長を支えた世代は“勤勉”や“責任”を当然のように背負っていた。
「会社のため」「家族のため」「社会のため」という価値観が生きる指針であり同時に幸福の形でもあった。
欧米との対比に見る「働く」概念の違い
一方、欧米では「働く」ことの出発点が異なる。
キリスト教の教えでは、労働は“原罪の罰”として与えられたものだ。
そのため、歴史的には「働く=義務」「労働=苦痛」という意識があった。
宗教改革以降、「労働を通じて神に仕える」ことが信仰の証とされたが、根底にはあくまで「個人の救済のための労働」がある。
日本のように「共同体や国家のために働く」という発想とは根が違う。
現代社会で「働く」が“悪”に見える理由
1990年代以降、「働きすぎ」「メンタル不調」などが社会問題化し“働くこと”そのものにネガティブな印象が重ねられていった。
SNSの普及により「自由」「多様」「自分らしく」という価値観が広まり“仕事=生き方”から“仕事=選択肢”へと意味が変化した。
つまり「働かされること」への反発が「働くことそのもの」への拒否と混同されてしまっているのだ。
このズレこそ、現代の“働く”をめぐる混乱の正体である。
経営者としての“働く”再定義
経営者として思うのは「働く」ことを再び“美徳”に戻す必要があるということだ。
ただしそれは、かつての“滅私奉公”ではない。
「新しい働く」は、自らの力で他者や社会をより良くする創造行為である。
働くことは「命令」でも「義務」でもなく「貢献」と「表現」であり、人間の尊厳そのものである。
働くとは「自分をすり減らすこと」ではなく「自分を通して社会を照らすこと」
この認識を持てる組織こそがこれからの時代に強く、そして長く続く。
「トップが働く」とは何を意味するのか
トップが「働く」と宣言することは「部下に働け」と命じることではなく「まず自分が誰よりも動き、考え、責任を背負う」という姿勢の表明である。
経営者が先頭で汗をかき、意思決定に命をかける。
その姿が組織全体の“働く意味”を再定義していく。
そこに“働く=悪”という発想が入り込む余地はない。
働くことは、希望である。
働けることは生きている証であり社会に繋がる喜びだ。
この原点をもう一度取り戻すことがこれからのリーダーの使命なのだと思う。