自我って何ですか? | HCAP東京大学運営委員会(HCAP Tokyo)

HCAP東京大学運営委員会(HCAP Tokyo)

HCAP東京大学運営委員会の現役メンバーが更新する公式ブログです。

こんばんは、上野です。

最近、「自分」がどこにいるのか、ということについて考えています。

自我ってどこにあるんでしょう?
いや、そもそも、そんなもの存在しているんでしょうか?


私はかなり人に流されやすいです。ある議論について、賛成意見と反対意見のどちらを聞いても納得してしまうことが多いです。また、少し前まで、嫌いなものなどほとんどなく、眼に写るもの全てが魅力的で捨てがたいものに感じられました。

もちろん、いろいろな意見を理解することが大事だとか、広くアンテナを持つことが大切だとか、そういうことは百も承知ですし、実際その通りだと思います。ただ、今私が言いたいのはそういうことではありません。

誰の意見にも賛成できるということは、実際は何も考えていないことと同じではないかと思うのです。
何にでも興味を持つことは、そのいずれにも興味を持っていないことと同じなのではないかと思うのです。

何かを思考しているふりをすることはとても簡単です。どこかで聞いた誰かの意見を復唱していればそれで十分です。
他人の意見を聞いたときにそれと照らし合わせることのできる自分の考えってどこにあるんでしょう?それを持っていて、いつでも揺るがないように見える
人もいる一方で、自分のことを省みてみると、いつも何かにすがっているだけで、気づけばどこにも「自分」なんていないような気さえしてきます。他人に左右されない確固たる自我が、自分の中にあるはずなのになかなか見えてこない。歯痒くもあり、焦りもします。


しかしながら、こうも考えられるのです。

自己は、他者がいて初めて自覚されます。たとえば、江戸時代の日本人は自らを「日本人」とは認識しえなかったはずです。なぜなら、諸外国との国交を持たなかった島国の住人にとって、その日常生活の中には日本以外という存在がなかったからです。自分以外との関わりを持ったときに初めて、そこに自己という境界が意識される、その意味では、「他人に左右されない確固たる自我」なんて幻想以外の何ものでもありません。

この記事の内容も、かつて読んだ文章や、受験生時代に聞いた現代文の講義の影響を少なからず受けたものです。というか「少なからず」どころではなく、存分に影響受けてます。



人は極論を好みます。好きか嫌いか、正しいか誤りか、真か偽か。
極論で全てを片付けようとするのは悪い癖なのかもしれません。
現実にはそんなものがあてはまる場面なんてほんのわずかで、そのなんとなくの中間で上手く折り合いがつくようになっているみたいです。

自我はあるかもしれないし、ないかもしれない…
というわけで結局、どちらの意見も正しく見えてきて、じゃぁ自分の意見は?と考え出すと、ちょうど振り出しに戻ってくるわけですね。

まぁ、答えなんてないんでしょう。
答えのある環境のほうが、人生の中ではむしろ特異なはずです。
学生時代という特異な環境に、私はあまりに慣れすぎてしまったのかもしれません。

カンファレンスまで1週間をきりました。
こんな話を東京にやってくるハーバード生と交わせたら、なかなか面白いはずです。
怯まず臆せず、「英語力が…」なんて言い訳せず、全力でぶつかっていこうと思います!

HCAP4期記録係 上野由加里