私たちにとってなぜ「水」は重要なのか?
体内に存在する「水」のふるまいにとことん着目して、生命現象を理解するために日夜研究を重ねているのが、信濃町キャンパスにある医学部薬理学教室を率いる安井正人教授です。
「私たちが飲んだ水は、吸収されたのちに血液から細胞へと渡り、唾液や涙、汗、尿へと役割を変えて変化して、最後には体外へと出ていきます。生命現象を考える上で、水は非常に大事な役割を担っているんですよ」と安井教授は語ります。
たとえば、病気の検査を考えます。糖尿病の検査では尿を採取して「血糖値」を測りますし、がんの検査をするときは“バイオマーカー”という特定の疾患に反応する物質を血液や尿から測定します。これまでの医学では、尿や血液に溶けている特定の物質の「濃度」を見ることで、体の状態を調べてきました。しかしこの方法だと、別の病気について診る場合は別の物質の濃度を再び測らねばなりません。また、見るべき“バイオマーカー”がまだ見つかっていない疾病の場合は、検査手法が確立されるまでなんの手出しもできなくなります。
そこで登場するのが、体内に存在する「水」です。液体に溶けている物質を「溶質」、溶かしている液体を「溶媒」ということを中学校の理科で習ったのは覚えているでしょうか。そもそも体内の「水」は溶媒としていろいろな溶質を溶かしこんでいます。これまでの医学では、この「溶質」に着目して病気の診断などを行っていたわけです。しかしここ薬理学教室では、「溶媒」として体内で働く水に着目しています。
「水は物質を溶かしこむと、接している水分子との間で相互作用が起きて、水分子の状態(水素結合のパターン)が微小に変化します。この変化を詳しく見る(科学的に測定・記述する)ことができれば、体に何が起こっているのかがわかるというわけです」と安井教授は話します。
水はどんな人でも共通して持っている溶媒だからこそ、その変化からさまざまな情報を得ることができるといいます。「ウォーターミラー・アプローチ」と呼んでいるこの手法が本当に実用化されたら、医学における検査の常識が変わるはず、と安井教授は断言します。
ありふれた「水」に注目する理由
「大人だと体のおよそ7割が水だといわれますが、胎児だと9割にもなります。さらに羊水という水の中で10ヶ月かけて大きくなって、外の世界へと出てきます。誕生の直前までは水に満たされていた肺は、誕生直後に水がなくなりますよね。それによって呼吸をすることができるようになるわけです。生物学者のヘッケルがいうように、誕生の際にはまるで生物が海の中から陸に上がるようなダイナミックな変化が起こります。これが水に興味関心を持つようになった出発点です」と安井教授は話します。
「胎児のときに肺を満たしていた水がなくなるメカニズムは、これまでは産道を通るときに圧迫されて肺から体外へと押し出されると考えられてきました。しかし実は『アクアポリン』というタンパク質が重要な役割を担っていることがわかってきています」と安井教授は力をこめます。
「臨床は、モグラたたきのように症状が表れてから対処する日々です。そうではなく、モグラが地面の中をどう動いているか知りたいと思ったのです」。また、小児科医として「発達」という観点で病気を理解したいという思いが強くなっていきました。実際、臨床現場で働く小児科医は、患者の年齢がほんの数年違うだけで、同じような病気でも薬の種類や対処法を変えねばなりません。発達に応じた対処の違いを専門的に勉強することは必須になりますが、中にはまだメカニズムが解明されていないものも多いのです。
研究者として「発達」と向き合う中で、安井教授は「水」と大きな関わりを持つことになります。たとえば、大人は大量の汗をかくとそのぶん尿を濃縮して体内の水分量をコントロールできますが、赤ちゃんは尿の濃縮をうまく行えないため脱水や熱中症などの障害を起こしがちです。一方で、赤ちゃんは母乳やミルクという水分の形で栄養を摂取していることから、その仕組みは理にかなっている面もあります。安井教授はこの「発達の度合いにより体内の水分量に違いがある」「発達の違いで水循環の活発さが異なる」ということに何か意味があるのではないか、と考えるようになります。
さらには、体内を巡る「水」の通り道についての研究も始めます。
そこで、重要な働きをしているのが、水チャネル、即ちアクアポリンです。アクアポリンは、細胞表面で水だけを選択的に通す“水の通り道”としての役割を担うタンパク質です。これまでに見つかっている13種類のアクアポリンは、現れる部位や働きもそれぞれ異なっています。
「その中の1種類が、胎児の肺の中にある水を体内へ吸収する役割を担っていると考えられるようになりました。汗をかいたり唾液が出たり尿が濃縮されたり、私たちの体内ではアクアポリンを通じて実に大量の水がやり取りされています。もちろんわかっている事柄は氷山の一角で、まだまだわからないことだらけですけれどね」
こうして医学的な観点から「水」へ、とことん注目した研究を行うようになります。
「水」の違いを“みる”方法
体内をめぐる水の“違い”をどうやって観察しているのでしょう。水は酸素(O)原子一つと水素(H)原子二つが結合した水分子(H2O)からできていますが、このOとHが結合している部分は常に水分子に固有の振動をしています。水の状態(水素結合のパターン)の変化が、この振動のちょっとした変化を生み出し、赤外線を当てることでそれを測定できるといいます。
また、この手法では短い波長から長い波長までひと続きの情報(スペクトル)を一気に得ることができます。このデータを継続して蓄積していけば、測定後でもさまざまな情報について新たな解析を行うこともできます。
「今使われている『MRI検査』では、体内の水が持っているH原子の核スピン情報からガンや炎症を診ています。がん組織の『水』から出てくる信号が正常な組織と違うから見分けがつくわけで、僕たちがやりたいことを実証していることに他なりません。しかし、この違いが原因と結果のどちらからくるのかは、まだわかりません。水のふるまいをもっと詳細にとらえることで生体機能を基礎から考えたい、という研究を地道に行っています」
一方、安井教授は、生体内の水の研究を進めるにあたり実際に「見る」ことにとても力を入れています。
「企業と力を合わせて、水を『見る』顕微鏡を作りました。私たちの体内、細胞の中で交換されている水を見る顕微鏡です。一つのアクアポリンを通じて1秒間に3×109個の水分子が行き来しています。その“通り道”が赤血球の細胞一つに30万個存在します。それだけダイナミックに水を循環させる必要があるということなのですが、この顕微鏡では水をやり取りするスピードまで生きている状態でそのまま測ることができます」
さらには近年の技術革新の甲斐もあり、コンピュータによって計算時間が飛躍的に短くなったため、水分子がやり取りされる様子をCGで再現することもできるようになりました。
「研究を始めた10年ほど前は計算に3ヶ月ほどかかっていましたが、今ではスーパーコンピュータを使えば3日でできます。その分、もっと長い時間がかかる現象も解析できるようになりました。CGにして視覚的に伝えることができれば、どんな人にも何が起こっているのかわかりますよね」
さらなる「水」の可能性-先に目指すもの
「複雑な状態を単純化すると、見えなくなるものがある。もちろん方法論としては大変な作業になるのですが、システムを理解するにはシステムのまま見ていきたいのです。私たちの体を一つのシステムと考えたときに、全てを繋いでいるものは水ですね。だからこそ、水を詳しく知りたい。キープレーヤーの役割がわかれば、体が変化するメカニズムが次々にわかる可能性を秘めています」と安井教授は力をこめます。
構成人数は20人ほどという薬理学教室ですが、その専門領域は多岐にわたります。農学、理学、薬学、数学……、医師は安井教授だけだといいます。さらに、研究を進める上では理工学部や企業との連携も行うなど、連携相手の幅広さも特徴的です。ここから、何か一つに特化した研究を進めているわけではなく、とにかく生命現象全体を全体のまま理解したい、将来の健康促進に繋げたい、という熱意が見えてきます。
「医学部の研究者である以上、出口としては疾患の診断や治療、予防に繋げたいですね。このような生体情報が毎日ノーストレスで取れるようになったら、どれだけ日々の健康に貢献できるようになるでしょうか。匠のような医師に相談しなくても、数字で出せれば定量化できる。これは、これまで感覚的なものに頼らざるを得なかった医療教育の分野にも応用できるはずです」
超高齢化社会に突入し、健康維持は大きな社会問題にもなるでしょう。治療だけでなく予防することに対する関心がさらに高まっていくのは間違いありませんし、早期発見よりも早くに手を打つ体調管理や健康増進といった“攻めの予防”は私たちにとって必要不可欠になるでしょう。私たちの研究は、そのようなことにも貢献できると考えています。
「詩人の大岡信さんが書いた詩に、『地表面の七割は水/人体の七割も水/われわれの最も深い感情も思想も/水が感じ 水が考へてゐるにちがひない』(「故郷の水へのメッセージ」より)というものがあります。
前を向く安井教授の挑戦は、さまざまな分野・組織を巻きこみながらさらに進んでいきます。
1989年慶應義塾大学医学部卒業。1989年聖路加国際病院小児科レジデント。1992年東京女子医科大学母子総合医療センター新生児室助手。1993年よりスウェーデンへ留学。1997年スウェーデン王国カロリンスカ研究所大学院博士課程修了、Doctor of Philosophy取得。1997年米国ジョンズ・ホプキンス大学医学部ポストドクトラルフェロー。1999年米国ジョンズ・ホプキンス大学医学部講師、2001年米国ジョンズ・ホプキンス大学医学部助教授。2006年より慶應義塾大学医学部薬理学教室教授、現在に至る。
の記事より引用
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