『ボルベール<帰郷>』 | おじさんの依存症日記。

おじさんの依存症日記。

何事も、他人に起こっている限り面白い。

イメージ 1

 冒頭、ラ・マンチャの田舎町の墓地で、せっせと墓磨きをする女たちの集団が映し出される。 スペインにも、お盆があるのかしらと思わせる。 ひどい東風が吹き抜けてゆく。 この風は、そこに住む人々の頭を狂わせる風だという。 きっとあのセルバンテスも、この風に弄られて、かの名作を書いたのだろう。

 そんな女たちの中に、ライムンダ (ペネロペ・クルス) や、姉のソーレ、15歳になるなる娘のパウラもいる。 三人は墓磨きのあと、田舎に住む目の不自由な伯母を訪ねる。 伯母は、ライムンダの母が4年前、父と共に山小屋の火事で焼死して以来、認知症にある。 普段面倒を見ているのは、お向かいに住むアグスティナ。 これまた一人暮らしの女性だ。 彼女の母も、なぜか山火事のあった同じ日、忽然と村から失踪している。

 なんとなく、夢野久作を思わせる設定だ。

 マドリードに戻ったライムンダ親子を迎えるのは、飲んだくれで失業した亭主。 ライムンダはこの駄目亭主のために、空港の雑役婦として身を粉にして働いている。 実は娘のパウラは、この男の子ではない。 この男、酔っ払った勢いでなさぬ仲の娘に手を出そうとして、パウラに刺し殺される。 ありがちな話だ。

 死体の始末に困るライムンダ。 そこに、姉からの電話。 伯母が急死したという。 葬儀のために、マドリードから百数十キロ離れたラ・マンチャに帰っている閑はない。 何とか死体を始末する方が先決だ。 彼女は姉にすべてを託す。

 ところが、葬儀に出席した姉・ソーレの前に、4年前に亡くなった筈の母親が、突然あの世から現れる。 母は亡霊なのか、生きた人間なのか。 映画は、ふたつの殺人事件を絡ませて、ここから思わぬ展開を見せてゆく。

 ある種、ミステリーなのでこれからのストーリー展開は書かない。

 ただ、ヒントとなるかどうか、わかる人にはわかるサジェッションを書いておく。 おじさんがまず思い出したのは、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の 『ふたりの女』。 そして、ラスト近くのシーンでテレビで放映されている、ルキノ・ヴィスコンティ監督の 『ベリッシマ』。 この二本の映画に、監督ペドロ・アルモドバルは、かなりインスパイアされているように思う。

 主演は、前者がソフィア・ローレン、後者がアンナ・マニャーニ。 どちらも大地にしっかりと根を生やしたような母性を演じてきた。 イタリア女優には、そのタイプが多い。 シルバーナ・マンガーノ、アリダ・ヴァリ、ジーナ・ロロブリジーダ、クラウディア・カルディナーレ、ステファニア・サンドレッリ、などなど。

 アルモドバルはきっとイタリアン・レアリズモの作品を観て育ったのだろう。 そして同じラテンの血の中に共通する 「母」 のイメージを紡ぎだしたに違いない。 ペネロペ・クルスはこの作品で、母を演じるために付け尻まで付けたという。

 しかし、この作品に登場する女優たち、匂い立つように美しいペネロペをはじめ、6人の女優すべてがカンヌで主演女優賞を獲得したことが納得させられる。 素晴らしいアンサンブルで、女性の持つしたたかさ、弱さ、強さ、しぶとさ、優しさ、いとおしさを演じてみせた。 心の離れていた母と娘がベンチに座り、ふたつの殺人事件を挟んで語りあい、理解しあうシーンは感動的だ。

 アルモドバルにとって、『ボルベール<帰郷>』 とは、故郷ラ・マンチャであると同時に、その地で彼を産んだ母への回帰でもあったのだろう。 70年代のアングラ芝居で流行った、おどろおどろしいものではなく、スペインの青空のようにカラリとした胎内回帰。 男には、到底太刀打ちできない世界。 母は強し。 その強さが遺伝してゆくところが、また女性の凄みだ。 ミトコンドリアに宿るイヴは、いつまでも、人類が続く限り伝えられてゆく。 

 親子、それも母と娘で揃って観て欲しい作品だ。 そして語りあって欲しい、親子の今を。