酔師。 | おじさんの依存症日記。

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 宮田昇さんの著書 『戦後 「翻訳」 風雲録 <翻訳者が神々だった時代> 』 を、読んだ。

 登場する翻訳家たちを、アトランダムに拾い上げてみる。

 中村能三、永井淳、井上一夫、清水俊二、大久保康雄、、田中西次郎、高橋豊、田村隆一、宇野利泰、中桐雅夫、北村太郎、福島正実、田中小実昌、鮎川信夫、中田耕治、田中融二、深町眞理子、常盤新平、亀山龍樹、白木茂、厚木淳、南山宏、、高橋健次、鈴木主税、小笠原豊樹、稲葉明雄、小泉太郎、袋一平、朝倉久志、伊藤典夫、野中重雄、戸田奈津子などなど。 

 本好きならば、誰もが一度はお世話になった人たちが登場してくる。 著者は、元・早川書房の編集者で、のちに海外著作権エージェントをなりわいとされた方だ。 1928年生まれというから、もう八十歳近い。 そんな著者が身近に見つめてきた翻訳家たちの世界が、赤裸々に綴られている。

 わたしたちは、よほどの語学の達人でなければ、翻訳家の文章を通してしか、外国の原著にめぐり合えない。 原著と、読者の橋渡し。 いわば影の存在で、決して表に顔を晒すことのない、そんな方々の人間的な一面を紹介してくれる。 詩人あり、編集者あり、作家あり、生粋の翻訳家あり、映画字幕担当者あり、学者あり。 どのようなジャンルでも、一皮剥けば悲喜こもごも、愛憎渦巻く魑魅魍魎の世界。

 わたしたちは、そんな翻訳の裏方たちの素顔を知らされる。 ゴシップ的な興味もある。 派閥だってあるんだそうだ。 相関図だって描けそう。 日本にSFを根付かせようとしたパイオニア、福島正実さん (ハインラインの 『夏への扉』 の翻訳家で 元・『SFマガジン』 編集長) の長いエピソードには、蒙を啓かれた。 当時のSF作家協会との対立の内幕を、初めてきちんとした内容で知った。

 中でもおじさんが興味を持ったエピソードが、斉藤正直について。 彼は大学教授であり、のちに明治大学の学長にまでなった人だ。 専門はフランス文学。 『ジャン・クリストフ』 や 『ナナ』、『レ・ミゼラブル』 などの翻訳で知られている。

 著者はこの方を敬愛を込めて 「酔師」 とよぶ。 

 ある日、早川書房の編集者だった著者が、斉藤正直を、社長の早川清、編集長の田村隆一とともに、小料理屋でもてなした。 当時24、5歳の著者は、酒癖が悪かった。 べろべろに酔って、溜まりに溜まった編集部内の鬱憤に、社員の身分も忘れて社長にからみだした。

 主客の斎藤の前で、我慢に我慢を重ねていた早川社長が遂にキレて、著者をぶん殴ろうと胸倉を掴んだそのとき、斉藤がぽつりといった。 「早川さん、あんたの方が悪い。 不愉快だ」 と。 その意外な言葉に、場は一瞬凍りついた。 早川はあっけにとられ、やがて振り上げた拳を下ろした。

 すると斉藤は追い討ちをかけるように、「おい、こんな不愉快なところにいる必要はない。 宮田、出よう」 と、さっさと靴を履き始めた。 あわてて著者は追いかけて外に出る。 斉藤の後ろをついて歩く著者は、夜風に吹かれながら、酔いのため何をからんだのかも良く覚えていない。 駅に着くと斎藤は、厳しい顔をしながら意外なことをいった。 「ほんとうは、おまえの方が悪い。 明日は一番に社に出て、社長に謝るんだ」。

 いかに飲んでいようと斎藤が、一瞬でその場の状況判断をし、的確な行動をとったことは間違いない。 それによって、少なくとも著者は、大学相撲部出身の豪腕・早川社長に殴られずにすんだ。 これは、斉藤が、数々の修羅場を潜り抜けてきたことをを想像させる。

 おじさんなんて、酒席ではホントのアル中飲み。 いかに早くへべれけになるかが勝負。 周りの状況など、まるで関係ない。 自分さえ一刻も早くアルコールの桃源郷に行ければ、としか考えていない。 そんなおじさんに、この斎藤のエピソードは、 「酒品」 というものを深く考えさせた。 反省しきりではある。 

 そしてその斎藤 「酔師」 も、いまはもういない。 大学の学長を辞めて、脳梗塞で倒れて鬼籍に入った。

 読み終えて、この本に登場する翻訳家、編集者たちは、鬼籍に入った方ばかりだということに気づく。 これは、生き残った著者が戦後の翻訳史を共に作り上げて来た同志たちに贈る、「おもしろうて、やがてかなしき」 翻訳家レクイエムなのだ。

 最後に著者は書く。

 「彼らが翻訳した作品には、すでに絶版になっているものも多くある。 今後も歳を経るにしたがって、絶版にされるものは増えていく。 原作そのものは、いずれ陽の目を見ることもあろう。 ただ、その時、彼らの翻訳が、すべてがすべて生かされるか疑わしい。 他が代わって、翻訳するかもしれない。
 それが翻訳、翻訳者のまた、宿命であろう。 今は、私が出遭い、数々の思い出を残して逝った彼らを、ただ悼むのみである」。 
 と。



 ※ おじさんが読んだのは 「本の雑誌社」版でしたが、最近 「みすず書房」 から、改訂増補版が出たようです。