おじさんの依存症日記。

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何事も、他人に起こっている限り面白い。

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 徳川将軍家に、公人朝夕人 (くにんちょうじゃくにん) という、十人扶持の役人がいた。 土田 (しだ) 家という。 『子連れ狼』 の公儀介錯人、拝一刀を思わせるが、この一族、何をする家柄だったのか。

 

 江戸時代の将軍や大名の正装は、ひとりでは着付けができないし、一度着たらひとりでは絶対に直せない。 実に厄介な代物だった。 かといって、土田家はもちろん公儀着付け人などではない。 (そんな役人はいない)。

 

 『忠臣蔵』 の松の廊下で浅野内匠頭がはいていた長袴は、13センチも床にずるずると引きずっていた。 さて、この長袴のときに小便をしたくなったらどうするか? 袴には社会の窓がついていない。 トイレで簡単に脱ぐわけにも行かない。 せっば詰まって脱いだら最後、着直すのにひどく手間どる。

 

 しかしそれはそれ、さすが徳川の重臣や旗本も、そこんとこはちゃんと考えてある。 江戸城内でやたら垂れ流されては困る。 こんなときには、尿筒 (しづつ) という便利なものを用いる。 太い竹でできていて、袴の裾から差し込んで、ここにチ○ポ○を入れてジョンジョロリンと用を足す。

 

 尿筒という道具の歴史は古く、平安時代の貴族や僧侶も外出のときに用いたという。 それ専門の従者は、主人の尿筒を刀よろしく腰に差して従い、御用のときには腰から抜いて恭しく差し出した。 冬は竹筒に直接触れると冷たいので、口元に鹿皮をぐるりと巻いた。 長さは一定しなかったらしいが、腰に差したくらいだから刀程度のものだったと思われる。

 

 実は土田家、親子代々、将軍様の尿筒をしっかりと懐に抱いて仕えた。 この一族、室町幕府の足利将軍の頃から尿筒一筋というから、その歴史は徳川家よりも古い。 足利家が織田信長によって倒されると、織田家に尿筒係りとして召抱えられ、豊臣秀吉の天下となると豊臣家に、徳川幕府になると徳川家に仕えた。

 

 足利幕府から明治維新まで小便筒一筋500年、まさに隠れたる名門なのだ。 さて、その一族の末裔の方々、いまは何をやっておられるのだろうか。

   長野の怪人・保科五無斎|ろあつ|note

 


 ほしな ひゃくすけ (明治元年・1868~明治四十四年・1911)

 保科百助は奇人だった。 だから中年を過ぎても、嫁の来手がなかった。 彼は新聞の 「奇人コンクール」 で優勝して手にした賞金百円を使って、「ワイフ周旋くださるべく候」 という広告を出した。

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 一、門閥は第一流にてもさしつかえなく、下にてもよろしい。

 一、財産は大地主にても苦しからず、赤貧洗うがごとくでもよし。

 一、容姿はかくべつ別品である必要もないが、一見不快の念を起こさぬような者の愛嬌たっぷり、二重まぶた、両えくぼはすこぶる必要な条件にてご座候。

 一、才気はむしろないほうが安全。 女子の才子と来ては、少しく閉口いたし候。 むしろウスノロジストの方、しかるべく候。

 一、体格は仁王さまを負かすようにても苦しからずとも、また豆粒大にても可。 いずれにしても肥満体がよく、骨と皮ばかりは断じて不可。

 一、おしゃべりは無用。 むしろ唖娘 (おしむすめ) のほうがよい。 「うちのやどろく、酒ばかり飲んで、愚図でトンマでへちまで野暮で、そのくせアタイに帯もたすきも、買うてはくれず、ホンにショ事ないわいな」 などと来客の前で棚卸しされてはたまらん。

 これを要するに上等ワイフなら、下女小間使いを与え、あひるのふとんの上に安置してもよいが、下等ワイフなら下女働きを申しつける予定である。

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 もちろん、応募してくる女性がいるはずもなく、彼はこんな狂歌を作って、妻を求める真情を訴えた。

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 年とってみれば無闇に思うかな この世でどうか、かかを欲しなと

 人のかか見るたびごとに思うかな うちにもこんなかかを欲しなと

 別品を見るたびごとに思うかな 一夜でもよしかかに欲しなと

 おもうかな又おもうかな思うかな おもい焦がれてかかを欲しなと

 どうしてもないというなら思うかな 森羅万象かかに欲しなと

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 反骨の地方教育家として知られる百助は長野県生まれ。小学校教師となるも、34歳のとき、何を思ったか突然職を辞し、県下の鉱石標本の採取に専念する。 その後、自ら中等学校の塾を設立して、地方教育の普及に努力した。 権威主義とアカデミズムを排撃し、地方教育界が中央集権のパラダイムに組み込まれてゆく風潮に、生涯抵抗し続けた。

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 辞世の歌

 われ死なば共同墓地へすぐ埋めつ 焼いてなりとも生までなりとも

 

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 最近知った知識なのだが、東京新宿駅東口広場に、「馬水槽」 (ばすいそう) なるモニュメントが建っているという。

 

 おじさんは、東京に20数年暮らしていた。 毎日夜になると、新宿・渋谷あたりで飲んだくれていた。 何百回、いや、何千回とこいつの前を通ったはずなのに、まるで気が付かなかった。

 

 場所は、新宿アルタのまん前。 いまは 「みんなの泉」 と名を変えている。 泉といっても、一滴の水がほとばしっているわけでもない。 蛇口代わりのライオンの頭が、水の出ない口をカッと開けているだけ。 三越のライオンと変わらない。

 

 この 「馬水槽」 は、1906年 (明治39年)、東京の水道の育ての親、中島鋭司博士に対し、ロンドン水槽協会から寄贈されたものだ。 高さ2.6メートルの赤大理石製の柱で、前に牛馬の給水台があり、その下に犬猫のための給水台、柱の裏には人間用の給水台がある。 

 

 はじめは千代田区有楽町の旧東京市役所前にあり、馬車が主な交通手段だった明治・大正の頃は、実際に御者の休憩や馬の給水に使われていた。 また、人に連れられた犬が水を飲んでいた。

 

 その後、馬が交通手段ではなくなっていったせいか、1918年 (大正7年)、近くの旧都庁水道局へと移転され、関東大震災で給水不能となった。 4年かかって修理復旧したが、太平洋戦争の空襲で破壊。 戦後間もなく復旧したが、こんどは蛇口や鉛管が盗難続きで、またまた給水不能となってしまった。

 

 1957年 (昭和32年)、そのまま新宿の旧淀橋浄水場に移転したものの、それもつかのま、浄水場は東村山市に引っ越したので、1964年 (昭和39年)、現在の場所に落ち着いた。 「馬水槽」 も、来日以来、数奇な運命をたどったものだ。

 

 はじめは渋谷駅前の忠犬ハチ公に負けない、格好の待ち合わせ場所の目印になると期待されたが、誰もこの 「馬水槽」 の謂れを知らず、じっくり眺めもしない。 「みんなの泉」 というくせに泉もなく、ちょっと気づかない塀の片隅にぽつねんと建つ不遇。 「馬水槽」 は、このままビルの谷間に忘れ去られてゆくのだろうか。

 

 降りそそぐ陽光の中、溢れんばかりの水をたたえて、その自らの歴史を人々に知らしめる日の、再び訪れんことを。