一番不明なのがどうやってこの国ができたかということなんですが、

日本書紀にも古事記にもその記述はないですね。

 

ずっと時代が下って戦国時代になれば、

戦国領主がどんな仕事をしたかがいろんなところで記録されて

最後に江戸幕府に集約されていく形は見えます。

 

なのに飛鳥時代以前はそれがないのにいきなり統一国家になっている。

 

すでに嘘くさい。

 

で、僕が考えるのは

書紀が編纂された寸前がこの国の形ができた頃ではないか?

 

つまり

 

壬申の乱前後。

 

それまでは中央集権国家でも統一国家でもなかったと考えます。

 

 

 

その前に、

僕が中学生の時に心躍らせた書物についてお話しましょう。


その名前は

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)

 

青森の市浦村の村史に採用されるや爆発的に民間史家から広がった津軽の歴史書です。

 

大和朝廷に反抗したナガスネ彦の子孫が東北に逃れ、やがて力を盛り返し大和朝廷と王権を交代しながらも、やがて蝦夷として追いやられ、安倍氏に引き継がれた東北勢力は歴史どおり前九年後三年の役を経験し、奥州藤原氏のあと津軽安藤氏で繁栄するが、やがて十三湖を襲う津波白髭水によって歴史から忽然と姿を消したというものです。

 

それもいまや偽書と断定され、表に出ることはありませんが、

確かに「ふしぎ発見」でも取り上げられ、NHK大河「炎立つ」でも設定に組み込まれていました。

 

それがいまや偽書として葬られた。

 

しかし、この本と前後して津軽安藤氏はクローズアップされています。

 

十三湖のほとりにある福島城址の発掘は中世東北最大規模の城郭を確認し、

また安藤氏の居館も発掘されつつあります。

 

偽書とよばれた外三郡誌がきっかけです。

 

なぜでしょう?

しばらく間をあけすぎましたが。


つまり、隋の使者は日本に来て現場に居合わせてるわけですよ。

 

そこで、男の王様、お妃、皇太子がいるのを確認している。

 

間違いじゃない。

 

てきとうな日本の学者は

 

この男王のことを聖徳太子の間違いだろうと決め付けています。

 

んなことあるか?

 

国賓として招かれた外交使節が、

 

皇太子を国王と間違えるか?

 

女帝(推古天皇)を皇太子の奥さんと間違えるか?

 

そんな馬鹿を隋は使者にして日本に送り、国状を報告させると思うか?

 

 

馬鹿も休み休み言いなさい。

 

つまりはその時代、奈良以外に日本の主権者がいてほしくない

 

大和王家以外を認めたくない貧弱な発想しかできない学者の妄想なんです。

 

今の日本史って。

 

 

先に結論を言いましょう。

 

隋は北九州にある国家と外交していたんです。

 

決して大和朝廷とはしていません。


ややこしいのは


文林郎斐世清が隋が滅びたあとも唐にひろってもらって


同じように日本外交をまかされたことなんです。

 

大和朝廷は隋とは国交がないがその後の唐とはある。

 

だから大和朝廷の歴史書には隋の名がなく、つまり遣隋使が無く、

 

遣唐使があるのです。

 

 

もう一度言いますね。

 

隋の煬帝(ヨウダイ)に使いしたのは俀国(タイコク)の男王、タリシホコで

 

大和朝廷の聖徳太子では決して無い。ありえないんです。

さて隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)のポイントですが、
まず正しくは俀国伝と(たいこくでん)書かれています。
そして王の名前が多利思比孤(タリシヒコ)とされていますが、
原文では多利思北孤(タリシホコ)と書かれていること。

この二点は日本の歴史学界が勝手に書き直しをしているところで、
もしかしたら改ざんかも知れないということを
注意しなければなりません。
 
日本史学界がよくやる悪しき習慣です。

大切なのはこれが伝え聞きではなく
俀国(タイコク)によって正式に書かれた国書が隋の煬帝に提出されていることと、
俀国(タイコク)の使者本人が鴻櫨卿(コウロキョウ・外務大臣)にそれを読みあげているだろうということです。
しかも返使、文林郎斐世清(ブンリンロウ ハイセイセイ)を遣わしているので間違いがあればこの時点で訂正されているべきです。
つまり正式に伝えられ、記録された国交文書に
現代日本人に「間違いだろう」程度の判断で書き換える権利はないのです。
事実をそのまま受け止めること、ここからはじめなければなりません。

つまり俀国(タイコク)の男王、タリシホコが煬帝(ヨウダイ)に使いしたという事実、
まずこれを受け止めなければいけません。
ここから日本の古代が見え始めてくるのです。