【感動秘話】空襲で死を覚悟した母親が最後に取った行動… | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


昭和20年3月10日、東京大空襲の日。理不尽な炎の中で最期を遂げられた、先人たちの御霊が安らかでありますことをお祈りいたします。

東京大空襲について、子どもの頃からよく母に聞かされた話をいくつか思い出しました。母の里は信州で、戦時中は東京から学童疎開の子供達が来ていたそうです。子供同士で喧嘩になり、東京の子達に“いなかっぺ”と言われると地元の子達は“とうきょうっぽ”と言い返したそうです。でも、総じて親元を離れて寂しい思いとひもじい思いをして気の毒だと地元でも思われていたそうです。昭和20年3月といえば、母も小学校の卒業の年でしたが、疎開に来ていた小学校六年の子達は卒業式のために東京に戻り、東京大空襲にあってしまったということをよく聞きました。私が子どもの頃、NHKの子供番組で少年ドラマシリーズというのをやっていて、いつだったか、東京大空襲を題材にしたドラマを見た時に、空襲からやっと避難して、遠くから燃える東京を悲しく眺めるシーンが頭に残ってます。その時に母と話し聞いたのかもしれない、皆、山の手に逃げたとか、河に飛び込むけど、河はお湯になっていて皆亡くなったとか、逃げる間、背中におぶった赤ちゃんに水をかけながら逃げたけど、赤ちゃんは亡くなってしまっていたとか、母の知っている話を色々聞いて、たぶん衝撃的だったのでよく記憶に残っています。また、うちに東京大空襲の記録写真集があり、子供心に表紙だけ見ても恐くて見れなかったのを一度しっかり見て、あまりの凄惨さにショックを受け、トラウマになってしまった。頭にこびりついて離れません。この動画は、そんな東京大空襲の中を逃げ惑ったであろう、あるお母さんのお話です。

【感動秘話】空襲で死を覚悟した母親が最後に取った行動… 3:20
【世界から愛される日本へ】

内容・書き起こし


昭和二十年三月十日の(東京)大空襲
から三日目か四日目であったか、
私の脳裏に鮮明に残っている一つの
情景がある。

永大橋から深川木場方面の死体取り
片付け作業に従事していた私は、無
数とも思われる程の遺体に慣れて、
一遺体ごとに手を合わせるものの、
初めに感じていた異臭にも、焼けた
だれた皮膚の無残さにも、さして驚
くこともなくなっていた。

午後も夕方近く、路地と見られる所
で発見した遺体の異様な姿態に不審
を覚えた。

頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷
の皮膚があらわなことはいずれとも
変わりはなかったが、倒壊物の下敷
きになった方の他はうつ伏せか、横
かがみ、仰向きが全てであったのに、
その遺体のみは地面に顔をつけてう
ずくまっていた。

着衣から女性と見分けられたが、な
ぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。

さらに、その下には大きな穴が掘ら
れていた。

母と思われる人の十本の指には血と
泥がこびりつき、つめは一つもなか
った。

どこからか来て、もはやと覚悟して、
指で固い地面を掘り赤ちゃんを入れ、
その上におおいかぶさって火を防ぎ、
わが子の生命を守ろうとしたのであ
ろう。

赤ちゃんの着物は少しも焼けていな
かった。

小さなかわいいきれいな両手が母の
乳房の一つをつかんでいた。

だが、煙のためかその赤ちゃんもす
でに息をしていなかった。

わたしの周囲には十人余りの友人が
いたが、だれも無言であった。

どの顔も涙で汚れゆがんでいた。

一人がそっとその場をはなれ、地面
にはう破裂した水道管からチョロチ
ョロこぼれるような水で手ぬぐいを
ぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を
丁寧にふいた。

若い顔がそこに現れた。

ひどい火傷を負いながらも、息の出
来ない煙に巻かれながらも、苦痛の
表情は見られなかった。

これは、いったいなぜだろう。

美しい顔であった。

人間の愛を表現する顔であったのか。

だれかがいった。

「花があったらな──」

あたりは、はるか彼方まで焼け野原
が続いていた。

私たちは、数え十九歳の学徒兵で
あった。