【感動】櫻井よしこさんが感動した日本のとある会社に、真の日本の姿が・・ | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


朝から涙ボロボロ流しながら視聴しました。辛いことの多い人生であっても、きっとご先祖様に生きよ!って言われたんだな、人はやっぱり何かに護られていて、必死に生きれば報われるんだ、そして、その辛い日々を乗り越えたことで行き着いた境地、ご先祖様に感謝し、力を尽くしてくれた人々に感謝し、無欲で世のため人のために良いことをしようという生き様、それが武士道につながるんだ、などとりとめないですが、そんなことを感じたお話でした。

【感動】櫻井よしこさんが感動した日本のとある会社に、真の日本の姿が・・[海外が感動する日本の力] 9:25
【日本に生まれて良かった】
m(_ _)m URLでのリンクはできませんでした

内容・書き起こし


現代を生きる
武士道とは・・


現代を生きる
日本人の武士道として
櫻井よしこさんが
感動的なお話を
書かれています。

その会社の敷地内には
慰霊碑を建て、
会社にとっての「英霊」を
祀っているそうです。

大正15年、飯笹さんは
佐賀県の山間の
温泉地に生まれ
家計の事情から
大学進学をあきらめ、
地元佐賀県の
工業高校に入学し、
卒業後は日本タイヤ
(現ブリジストン)に
就職しました。

昭和24年に上司の紹介で
お見合いをし、
藤子さんと結ばれました。

仕事も順調で
幸せな結婚生活が
始まるはずでしたが、
結婚から3ヵ月、
藤子さんに異変が起きました。

最初は微熱と嘔吐で
つわりとよく似た症状でした。
周囲が「おめでたですね」と
祝福する中、
どうも様子がおかしい。

久留米大学付属病院で
検査を受けると、医師に
「余命1ヵ月。
もう手の施しようがない。
自宅に連れて帰って
畳の上で死なせてあげなさい」
と宣告されました。

「結核性骨髄炎」、
結核菌が骨髄に入って
起こる病気でした。
当時、有効な治療法はなく、
現在でも診断や治療が遅れれば
50%は後遺症を残す難病です。

飯笹さんは
奥様の命を救うために
全力で看病しました。

アメリカでストレプトマイシン
という結核の特効薬が
開発されたと聞くと、
その入手に奔走しました。
上司に懇願して
アメリカに出張する
ブリジストンの幹部達に
持ち帰ってもらいました。

こうして藤子さんは
一命を取り留めましたが
完治したわけではありません。
結核菌が脊髄の中で
周期的に増殖して
脳を圧迫するため
錯乱状態に陥ります。

定期的に病院で結核菌を
抜いてもらわなければならりませんが、
背中から脊髄に
箸のような太い針を
刺すのですから、
ものすごい痛みです。

うめきながら痛みに耐える
その姿に、飯笹さんは
幾度も涙を流したそうです。

さらに
飯笹さんを追いつめたのは
経済的問題でした。

医療費は飯笹さんの
月給の8倍。
生家が保有していた山や田畑を
すべて売り払い、
藤子さんの実家の財産も
使い果たし、借金を重ね、
今でいうサラ金地獄のような
生活だったそうです。

「もう死ぬしかない」
昭和28年6月、飯笹さんは
藤子さんを病院から連れ出し、
気が付くと筑後川のほとりに
立っていました。

連日の豪雨で川が増水していて
「妻を抱いて飛び込めば、
確実に死ねる」
と思ったそうです。

ところが、濁流に向かって
足を踏み出そうとした時、
意識がもうろうとしていた
藤子さんが
「帰りたい」と言ったのです。

「藤子、お前
どこに帰りたいとや」
「家に。家に帰りたい」
飯笹さんは
激しい雨に打たれながら、
藤子さんと一緒に
その場に座り込んで泣きました。

「泣いたと言ってもですね、
こぼれてくる涙は
雨と一緒になって、
もう雨か涙かわからんのです。

生きる決心をして
戻ったのですが、
その後に、驚くようなことを
知らされました」
と飯笹さんは
穏やかな微笑みを浮かべて
振り返ります。

その翌日、
筑後川が決壊したのです。

後に「久留米大水害」と
呼ばれる大災害が発生し、
藤子さんが入院していた病院も
濁流に襲われて
患者の多くが被害に遭い、
犠牲者も出ました。

あの日、もし飯笹さんが
自殺しようと藤子さんを
連れ出していなかったら、
どうなっていたかと
考えざるを得ません。

こうして
「生きる運命」を確信した
飯笹さんは、
治療費を捻出するために
独立を決意し、
栄電社という生産設備会社を
立ち上げました。
昭和31年のことです。

会社を立ち上げて
50年を迎えた時、
記念パーティーの代わりに、
栄電社で共に働き
会社を支えてくれた
内外の人々で、
個人となっていた25人の霊を
慰めるために
慰霊祭を行いました。

お坊さんにお経をあげてもらい、
社員全員が手を合わせて
感謝を捧げました。

今も日本の上空のどこかから
見守って下さっている
人々の魂に
感謝の気持ちを捧げる。
本当に日本人らしい
50周年のお祝いでした。

飯笹さんは神仏に帰依し、
毎日朝と晩に手を合わせます。
そうすると神仏と祖先の霊が
見守って下さると
実感するそうです。

だからでしょうか、
飯笹さんは
人に恵まれています。

たとえば研究費や開発に
のめり込み過ぎて
運転資金が底をついた時、
「銀行としては
融資できないから」と、
黙って個人の貯金通帳を
郵便受けに入れてくれた
銀行員がいました。

また会社の危機的状況を
乗り越えるために社員達が
進んで徹夜仕事に
打ち込んでくれました。

こうした日本人の
誠実さと責任感が
飯笹さんの周りで
良い形をつくり、
その輪の中で、
みんなが自ずと助け合う
社風が生まれています。

藤子さんが倒れて60年、
飯笹さんは妻を愛おしみ、
大事にして生きてきました。

最近、藤子さんに軽い認知症の
症状も出ているようですが、
飯笹さんは
「それもかわいいもんです」
と笑います。

妻を娶り、その妻とともに
人生の終わりまで歩み続ける。

死を願った
つらい日々も乗り越えて、
いま飯笹さんは、
自分以外の人々のために
よいことをしたいとの思いで、
無欲にいきています。
私はそのすがたに、
現代を生きる
武士の姿を見ます。



以上です。



雨の中、死のうと思い、奥様の一言で思いとどまり泣くところでは、もらい泣きしてしまいました。幸せなはずの結婚当初から不運に襲われ、つらい日々が長年続けば、心の折れる時もありますよね。不思議なほど運良く川の決壊から逃れることができたのは、やはりご先祖様か神様か、何かに護られているような気がしました。生きなさいってことだったんですね。一生懸命生きたから、助けてくれる人もいて、有り難さがわかる、感謝の気持ちでいっぱいになる。それを人に返そうとする、無欲になる、そういう繰り返しになるのかなぁなんて思いました。慎ましく誠実に、奥様を大切にしたそんな生き方を見たら、昔よく読んだ山本周五郎に出てくる、浪人だけど武士の姿を思い出しました。爽やかな気持ちになりました。