日本でオリンピックが出来るなら、私はどうなっても構わない!世界を動かした日系人の覚悟に… | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。


平昌オリンピックでの日本選手の活躍に、まだまだ話題も尽きないですね!やはりオリンピックが与えてくれる影響ってすごいんだなと思い、次の東京オリンピックも楽しみ!という気持にさせてくれます。今回ご紹介するのは、そんな興奮と喜びをもたらしてくれるオリンピックを敗戦後の日本で開催することで、日本に自信と誇りを取り戻させようと奔走した、祖国を思い愛する日系人の方のお話です。この方の力がなかったら、半世紀前の東京オリンピック開催はなかったかもしれません。国の援助もなく個人の力だけで、愛する日本のためにと奔走してくださった熱い心に、感動いたしました。

【感動】日本でオリンピックが出来るなら、私はどうなっても構わない!世界を動かした日系人の覚悟に… 10:48
【日本に生まれて良かった】

内容・書き起こし


日本の為なら
どうなってもいい


終戦後、日本人は
誇りと自信を失っていた。

そんな日本人に、
再び誇りと自信を
取り戻してほしいと、
東奔西走した人がいた。


ロサンゼルス在住の日系2世の
フレッド・和田勇である。

和田は日系人の
リーダー的存在で、
十数店舗のスーパーマーケットを
経営する実業家であった。


和田は国籍は米国であったが
「僕は日本人です」と
皆に言っていた。


昭和24年、
米国ではまだまだ
対日感情が悪かった頃、

和田は全米水泳選手権に
参加する日本人選手を
自宅で世話をした。


ここから和田と
日本スポーツ界の
交流が始まる。


昭和33年、和田のもとに
日本水泳連盟会長の
田畑政治が来て

「和田さん、東京で
オリンピックをやりたいんです。
何とかご協力をお願いしたい」
と言ってきた。


当時、オリンピック開催地に
名乗りを上げていたのは
東京の他、デトロイト、
ウィーン、ブリュッセルで、

東京のライバルは
米国のデトロイトであった。


開催地決定は
IOC委員の投票で決まるが、
この時、カギを握っていたのが
米国の強い影響下にあった
中南米であった。

この中南米を説得して
支持を得られるかが
東京開催の
大きなカギであった。


中南米のIOCの委員を
説得するように
日本から要請された和田は

「日本のためなら、
よろこんで!」と引き受けた。


しかし、当時の日本政府は
外貨不足で
和田に渡せる資金は
ゼロであった。

和田は正子夫人に
中南米に同行するように
説得した。


「僕は東京で
オリンピックが開けるなら
店はどうなってもええと
思うとる。

今、東京で
オリンピックをやれば、
日本は自信と誇りを取り戻して
大きくジャンプできるのや。

これは僕に与えられた
使命やと思う。」


和田の決意を理解した
正子夫人は、
私財をなげうって
中南米に渡った。


貧しい中南米の国の委員からは

「投票が行われるミュンヘンの
総会に出席するには
旅費その他の資金が必要です。
その援助がなければ
出席は困難です」

と言われると、和田は

「僕が全部出します」
と言って委員を説得した。


和田が中南米の委員に

「僕は、日本でオリンピックを
開催させたい一心から、
日本政府の援助なしに
40日間も
中南米諸国を回っている」

と伝えると、
彼らは皆驚いていた。


「私にも家内にも
熱い日本人の血が
流れております。

日本は敗戦で
厳しい試練を受けましたが、
いまや平和な国によみがえり、
オリンピックを開催できる力を
持つまでに復興しました。

東京オリンピックを
開催することで、
日本の人々に
勇気と自信を持ってもらえると
私は確信しています」。


この和田の熱意が伝わり、
中南米の委員たちは
こぞってIOC総会に出席して
「東京」に投票してくれた。


その結果、全58票のうち
34票が「東京」に入り、
東京での開催が決まった。


昭和39年10月10日、
澄み渡った空の下、
東京オリンピックが開催された。

アジア初のオリンピックで、
有色人種が運営したのは
このオリンピックが
初めてであった。


各国から
「素晴らしく行き届いた
運営だった」と絶賛された。


競技も日本選手はよく頑張り、
日本は16種目で
金メダルをとり、

米国、ソ連に次ぐ
第3位という成績だった。


東京オリンピックが
日本に与えた影響は
計り知れなかった。


招致が決まった昭和33年から
開催の昭和39年までの
7年間で、

日本の年経済成長率は
10%に達した。


都心には次々と
高速道路が走り、
一般道路も新設され、
拡幅され、

地下鉄の路線も増え、
開会式までに東京-大阪間に
東海道新幹線が開通し、

日本経済を支えるインフラが
完成していった。


「日本はこれで
一等国になったのや。

戦争に敗れて
四等国になったが、
よう立ち直った。

日本人は皆よう頑張った」。

和田夫妻の目は
涙でいっぱいだった。


以前、和田は
全米水泳選手権の日本選手の
祝勝パーティーの席で、
こう挨拶した。

「日本人選手の大活躍で、
ジャップと呼ばれていたのが、
一夜にしてジャパニーズと
呼ばれるようになりました。

選手の皆さんのお蔭です。
本間にありがとう。
よう頑張ってくださった。

わたくしたち日系人は
どれほど勇気づけられたか
わかりません。

心から感謝とお祝いを
申し上げます」。


日本がまだ貧しかった時、
日系人の人達は
多額の寄付をしてくれ、

オリンピックの開催で
経済成長させることが出来た。


その和田はこう述べた。

「僕は、心から
日本を愛しています。

日本が好きで好きで
たまらんのです。

心ある在米日系人は皆、
日本を応援しとるから」。


平成13年2月、
和田は93歳の生涯を閉じた。


晩年、和田は
日本人に励ましのメッセージを
送っている。

「日本は素晴らしい国です。
自信と誇りを持って、
世界に挑戦してください」。



以上です。



遠いところにいる家族から、励ましてもらっているような、そんな温かい気持ちになりました。日本人に自信と誇りを取り戻してほしい!その為に、私財をなげうってオリンピック招致に奔走してくれた。日本がオリンピックを開催できたのは、この和田夫妻のお蔭、海外にいる日系人の方々の温かい支援のお蔭でもあったんですね。半世紀前の東京オリンピックにかける人々の思いを知り、また次にやって来る東京オリンピックと今の日本を思った時、日本人は、しっかりしなくては!海外の日系人の人たちを悲しませるような体たらくではいけない!と切に思いました。