【感動】戦後、GHQがどうしても辞めさせたかった歌とは… | おふくのブログ

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今回も、副題の“軍艦行進曲が校歌で何が悪い!”が小気味良いです。GHQの圧力にも負けず、強い意志で守りぬいた校歌。実際に盛岡第一高校の校歌も最後に載せましたのでお聞きください。


【感動】戦後、GHQがどうしても辞めさせたかった歌とは… 5:17

内容・書き起こし



戦後、GHQがどうしても
止めさせたかった歌とは


明治30年代、岩手県の盛岡中学には板垣征四郎、米内光政、及川古志郎、石川啄木、宮沢賢治など、後に日本をリードしていく多くの人材を輩出していました。

特に昭和30年には、板垣征四郎が陸軍大臣、光内光政は海軍大臣、及川古志郎は支那方面艦隊司令長官となり、母校関係者の喜びはたい変なものでした。

この盛岡中学の校歌の曲は「軍艦行進曲」のメロディーなのです。

大日本帝国海軍の行進曲でもある「軍艦行進曲」の曲が、自分たちの母校の校歌であることも、在校生もOB達も誇りを持って歌い継いできました。

しかし、戦後、学制改革により盛岡中学が盛岡第一高等学校に切り替わり、GHQは軍艦行進曲の校歌も廃止するように命令しました。

大東亜戦争で日本の強さを痛いほど知ったGHQは、日本が二度とアメリカに逆らえないように、軍隊や神道につながるもの一切を徹底的に排除したのです。

ところが在校生やOBや盛岡の住民達が立ち上がり、占領政策による校歌廃止に徹底的に抵抗しました。

「我々地元の先輩が、誇りを持って歌い継いできた大切な校歌を廃止することは、盛岡中学の存在や明治以降の日本が歩んできた歴史そのものを否定することにもなり、絶対に許せない」。

「学校の校歌が軍艦行進曲のメロディーで何が悪いのだ」。

学校関係者が断固とした意志を貫き、「校歌は廃止させない!」と一歩も引かぬ態度を示したため、さすがのGHQもついに折れて、校歌はそのまま存続を許されました。

そして現在も盛岡一高の校歌として受け継がれています。

戦後日本は常にGHQの顔をうかがいながら、戦前の日本の全てを否定する風潮がある中でも、自分達の伝統をしっかり守ろうという強い意志を貫き通した学校もあったのです。

これこそ南部藩伝統の反骨精神そのものといえるでしょう。

昭和43年、第50回全国高校野球選手権大会で、盛岡一高が徳島県の鴨島商業に勝利し、甲子園で軍艦行進曲の校歌が流れたのです。

この時、校歌を残すために苦労されたOBや盛岡住民の方々は、涙を流しながら校歌を聞いていたと、当時の「岩手日報」が報じました。


世は謳はれし浩然(こうぜん)の
大気を ここにあつめたる
秀麗高き厳手山(いわてやま)

清流長き北上や
山河自然の化(か)をうけて
穢れは知らぬ白亜城(はくあじょう)

盛岡第一高歌 校歌斉唱(2009.7.18) 1:14

以上です。

日本人は、戦争に負けたのだからと、潔くというか柔順にGHQの言うことを受け入れていたのが想像できますが、そんな中でもこうやって、誇りを持って強い意志で伝統を守りぬいた、こんなことがあったんだと感激しました。校歌斉唱をそんな気持ちで聞きました。