「助けたくても助けられない」その震災が運命を変えた…被災地における自衛隊の葛藤があった! | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。



阪神・淡路大震災の時、なかなか自衛隊に災害派遣命令が出なかったのを思い出しました。自衛隊の方々が現地には到着していても、法の壁に阻まれ助けたくても助けられない状況にあったことは知りませんでした。この頃は、自衛隊への国民の理解もまだ今とは違っていたんですね。この時の葛藤を経て災害基本法も自衛隊法も改正され、16年後の東日本大震災での自衛隊の奮闘ぶりは、まだ記憶に新しいですが、そこでも迷いながら、でも国民の目線に立って動くことが軸になっていった、国民の間でも自衛隊への信頼感が増したと思います。
日本に襲いかかるのは、自然災害だけではありません。特に今は、外敵が日本を脅かすという意味で戦後の中で一番の国難の時ではないでしょうか。阪神淡路大震災、東日本大震災と日本国民を守るために自衛隊が動けるよう法改正したように、外敵から日本を守るために、自衛隊の手足を縛るものを取り払いたい、そう思いました。

「助けたくても助けられない」その震災が運命を変えた・・・被災地における自衛隊の葛藤があった!17:20

(内容・書き起こし)

助けたくても助けられない
自衛隊を変えた大震災

「中隊長は見なかったことにしてください」
年配の下士官がそう言うや否や、若い隊員たちは放置車両をどかし、瓦礫を押し退けました。
1995年の阪神・淡路大震災のことです。
発生当時の災害基本法では、被災地で被害を受けた工作物、または物件しか除去できませんでした。
放置車両をどかす行為は法に反するからです。



そもそも彼ら陸上自衛隊第3師団所属の自衛官たちは、災害派遣に基づいて現地に赴いたわけではありませんでした。被災地である神戸を管轄する、陸自第3師団上層部の機転により“訓練”と称して近隣状況の視察にやって来ただけだったのです。

放置車両をどかすことも、何ら法的根拠に基づかない行為でした。法を遵守する立場にある自衛隊にあって、これは本来認められることではありません。
目の前で瓦礫に埋もれている人がいます。「助けてくれ」「助けてください」という声がこだまします。
しかし助けてあげたくても助けられません。
自衛隊法に基づく災害派遣命令が降りてないという、法の壁に阻まれていたのです。



壁は法だけではありませんでした。
倒壊した建物の瓦礫ひとつ動かすにも専門知識が要ります。下手に動かせば倒壊が進むこともあります。
消防と違い、そうしたノウハウを持たない自衛隊が勝手に手を出すことで、助かる命が助からない可能性もあったのです。

「本当に動いていいものか否か。動きたくても動けない。」
現地に赴いた隊員のうち陸自隊長、小隊長といった指揮官クラスの隊員たちは、ジレンマに悩まされていました。
「何の命令も権限もないのに自衛隊が勝手に動いた・・・。」
震災の混乱が収束してから、そんな非難の声に晒されるかもしれない。
自分たちは何を言われてもいい。しかし上層部に迷惑がかかります。
大きな政治問題になるかもしれません。

こうした閉塞感漂う状況の中出てきたのが、「中隊長は見なかったことにしてください」という冒頭の下士官の言葉でした。
現場にいいち早く赴いた自衛官たちが、腹を括った瞬間でした。



陸自第3師団の隊員たちが法の壁を乗り越えて救援活動に当たっていた頃、神戸を管轄する海上自衛隊呉地方総官部では、同様に“訓練”と称して、輸送艦2隻に衣料、食料、医療品を積んで神戸に派遣しました。

この頃の様子を知る海自OBの1人は、「呉地方総監は輸送艦派遣時、辞表を書いて懐に入れていた。そして神戸の基地に向かいそこで自ら陣頭指揮を執った」と知られざる当時の状況を明かしています。



1995年1月17日9時50分、呉港から輸送艦が出港してから10分後の10時ちょうど。
ついに兵庫県から正式に災害派遣の要請が出ました。
これにより被災者救出に当たっていた隊員たちの行為は追認されたのです。

阪神・淡路では、このように自衛隊が勝手に動く是非が内外で問われました。
本来業務ではない救出・救援に自分たちがどこまで携わっていいのか。
だからといって自衛隊側も命令が下るまでただじっとしているわけにはいきません。

目の前の惨状を目にして「自衛隊は何もしなかった」と言われ続けることは、武人を自認する自衛隊にとっては「この上なく耐えがたい屈辱」です。
自衛官たちは、法と世論を気にしながら進退をかけて体と命を張りました。
それが阪神・淡路だったのです。



その阪神・淡路から16年後の東日本大震災。
自衛隊への国民の理解は阪神・淡路の活躍で十分得られていたため、法も世論も気にせずに済みました。
災害対策基本法も自衛隊法も改正されました。思う存分、自分たちの力を発揮できるのです。

全国の陸海空の部隊では、大震災の急報を聞くと同時に、「自分たちに行かせてください」という声があちこちから上がりました。
阪神・淡路では見られなかった光景です。



東日本では、震災発生の初動から、カメラを積んだ陸自のヘリが、被災地の様子を撮影し、その情報は全国の自衛隊各部隊にも伝わってきました。
社会のIT化どころか、まだ携帯も普及しておらず、自衛隊といえどもテレビや新聞報道以上の情報が伝わらなかった阪神・淡路の頃とは違います。自衛官たちは、「何をすべきか」がわかっていました。
しかし、いざ被災地に向かうとやはり迷いが生じる場面に出くわします。



震災発生の急報を受けて、現地に出動を命じられた1隻の護衛艦で、甲板上にいる見張り員が大声で叫びました。「遺体が漂流しています!」収容すべきかどうか。
1体の遺体を収容するよりも先に、生きて待つ被災者たちを優先すべきでないか。
しかしいくら未曾有の大震災とはいえ、目の前に流れている、沈もうとしている遺体を収容しなくていいのか・・・。
艦長はどう判断するのか。
乗員たちは固唾を呑んで見守っていました。
「急ぎ現地に向かおう。大勢の人が俺たちを待っている」。



艦内に重苦しい空気が立ち込めようとしていたとき、艦長に次ぐナンバー2の副長が反論しました。
「もし、今、漂流しているご遺体が艦長のご家族だったら、そのご判断は正しいですか?」
副長はそう言い残し艦橋を降りると、そのまま3月の冷たい海に飛び込み、漂流する遺体を収容。これを生きている方のように扱い艦の救援を待つ体勢を取ります。

その様子を見ていた艦長は何も言いませんでした。
艦に収容された遺体を甲板で毛布に包んでいるとき、その様子を遠くから眺めていた艦長に、ずぶ濡れの作業服姿の副長が近づきこう言いました。
「私の勝手な行為です。艦長は知らなかったことです。」
艦長は、「俺が命じたことだよ。ありがとう」
と静かに答え、副長を労いました。



艦長、副長、どちらの判断も決して間違いではありません。
当時を知る海自関係者は、こう言います。
「組織として正しいことを伝えた艦長、自衛隊として正しいものを教えてくれた副長、どちらも尊敬できる自衛隊です。」
艦長が副長の行動を認めたことで、乗員たちの間には、
「国民の目から見て自衛隊として正しいと信じることを行えば、その責任は艦長が取ってくれる」
という信頼感が高まり、俄然、艦内の士気が上がりました。



高度な組織化により「言われたことをしていればよかった」という時代と違い、階級、職位を問わず、
「国民の目から見てどうか」を考え動くことが、個々の自衛官に求められるようになりました。
阪神・淡路以降、組織の指示とは別に、良くも悪くも「国民の目」を軸に個人の判断で物事を進める自衛官が増えてきました。

戦後長らく、自衛隊は必ずしも国民の間でその存在意義を認められていませんでした。
海外からの侵略などもなく、その任務と活動が目に見えない中で、1991年湾岸戦争における初のPKO派遣以降、何がしかの有事に参加した隊員たちが一目置かれるようになってきました。
そして現在では、大規模な災害での救出・救援活動で活躍をしています。



阪神・淡路以降、新入隊員たちの間で希望する職種が変わってきたと言われてます。
陸なら、建築物や道路工事、橋梁架橋を請け負う施設科、食料や燃料運搬、入浴設備を整えるなどの任務を行う需品科。
海では、艦艇乗り組でも、華々しい護衛艦や潜水艦ではなく輸送艦、空なら輸送機パイロットです。
いずれも震災時、直接国民の目にその活躍が見える職種でした。
東日本以降、その傾向は、顕著なものとなっています。



阪神・淡路、東日本での教訓から、災害対策基本法も2014年に改正され、自衛官が独自の判断で放置車両を動かすことも認められました。
阪神・淡路、東日本の2震災での活躍から、自衛隊が大規模災害時、動きやすい環境がようやく整えられました。

たしかに自衛隊の本業はあくまでも安全保障であり、災害派遣は主たる業務ではありませんが、安全保障のなかに災害対策を組み込んでいけないという理由もないのではないでしょうか。

以上です。

阪神・淡路大震災の頃は、震災時放置車両を取り払うのにも法の壁に阻まれていたり、自衛隊が葛藤の中救助・救援活動をしていたなど知りませんでした。この時の教訓から、災害基本法や自衛隊法が改正された。次の東日本大震災では本当に自衛隊は私たちを助けてくれる最後の砦なんだ!とはっきり国民が理解したのではないでしょうか。それでも放置車両を個々の判断で動かせるようになったのは東日本大震災後だったんですね。一つ一つ苦労を経てよりいい方へと法の改正もされる。
自衛隊の本業は安全保障、自然災害も外敵による人的災害も、私たち国民にとってどちらも一大事です。今、国難の時に、安全保障面での適切な法改正が進んでいるとは思えないです。震災の経験を経て自衛隊が動きやすいように徐々にできたのとは違い、急いで未曾有の侵略・攻撃に備えなくてはいけない、自衛隊がしっかり動けなくてはいけない!被害を受けた経験を積んでからというわけにはいかないですね。国民の強い後押しが必要なのだと思います。