「今の日本に比べて・・・」祖国の為に戦った元日本兵の想い。 | おふくのブログ

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日本でのごく普通の日々の中で、心動かされる素敵なものに出会い、誰かに伝えたいと思った時に書く…今も変わらぬスタンスです。
気づけばユーチューブ動画のご紹介が中心で、少しでも分かり易い記事をと思いやっております。



「今の日本と比べてあまりに差がありすぎると思います。皆そういう意味で、特攻隊の100分の1、1000分、万分の1でも良い、その気持ちを汲んで、日本という祖国の為に・・・頑張って貰いたいと思います。」
動画の最後を締めくくっている元特攻兵、浜園重義さんの言葉です。今を生きる私たちは、この想いに応えなくてはいけないと思います。祖国を守る為の私たちの戦、選挙もその一つ、負けられないです。


世界が感動…。「今の日本と比べてあまりにも差がありすぎると思います・・・」
命をかけて祖国の為に戦った元日本兵の壮絶な体験と伝えたい想いとは!? 15:12
m(_ _)m画像添付は出来ましたがリンクができてませんでした、申し訳ありません。

(内容・書き起こし)

昭和20年3月25日。浜園重義さんは、静かに上官の言葉に耳を傾けました。
「本土の一角に敵が上陸するのを全力で阻止しなければならない」
所属していた隊に「特攻」の命令が下されたのです。21歳の若者は、ただただその命令に従うしかありませんでした。戦地に出たことのない航空学校を卒業したばかりの若者。
『兵士は皆、笑顔で逝った』と言われていましたが、それが真実ではないということが分かってきました。
「絶望と死への恐怖」をそれぞれ抱えていたのです・・・。

浜園さんは遺書を書きませんでした。「遺書を書いたら何か変わるんですか?特攻にいかんで良いと言うなら書きますよ。どうせ検閲されるんやし、本音も書けん」浜園さんは、怖かったわけでなく、特攻作戦が許せなかったのです。
18歳で自ら志願し佐世保相浦海兵団に入団。「お国を守りたい」「最前線の飛行機乗りになりたい!」浜園さんは選ばれしエリートがなれる、戦闘機パイロットになりたいと考え厳しい訓練に耐え抜きました。そして19歳で見事に戦闘機のパイロットになります。最初の赴任場所は、日本海軍の基地があったラバウル。
特攻を命じられた時、浜園さんの上官に沓名達夫さん(くつなたつお)という人物がいました。浜園さんが最も慕っていた上官でした。その沓名さんとの出会いもこのラバウルでした。
沓名さんは、浜園さん達を面倒よく世話しました。そんな沓名さんを浜園さんは尊敬していました・・・。
ついに浜園さんの初陣の時が来ます。
「先輩たちに遅れないようしっかりとついてこい!」沓名さんの号令を胸に秘め飛び立ちます。
「弾に当たれば死ぬ」初めて経験する本物の戦闘。必死の想いで爆弾を投下し、基地に戻りました。
「今日は生きて戻ることが出来た・・・」皆それに感謝しました。

それ以降浜園さんは、沓名さんからアドバイスを受け、熱心に研究し腕を上げていきました。
「私は命を惜しいとは思っていません。でも、絶対に負けたくないんです。勝って死ぬなら悔いはありません。」
「俺もだ。きっと死ぬ時はお前と一緒のような気がするよ」
自分の想いを打ち明けた浜園さんに、返した沓名さんの言葉。その日が訪れようとしていました・・・。
浜園さんは経験を積み、優秀な戦闘員になりました。敵の後方30度につけることが『必勝の条件』
零戦を操る浜園さんは無敵と呼ばれるほどの腕前に成長していたのです。
しかし昭和19年2月トラック諸島上空。浜園さんは何倍もの敵機に囲まれ激しい攻撃を受けてしまいました。
命からがら落下傘降下した浜園さんは、左太ももを損傷し顔一面を火傷する重症でしたが何とか一命は取り留めました。しかし失明する可能性がありました。失明すれば「お国を守れない」。絶望感に打ちのめされました・・・。
しかし仲間の看病もあり10日後、浜園さんの視力が回復しました。
「これでまた零戦に乗れる!」

しかし日本の戦況は苦戦が続きました。そしてついにあの作戦が考え出されます。『特攻作戦』浜園さんもフィリピンでその衝撃の作戦を聞くことになります。
「勝つことを信じて、全力で戦っているのに・・・これでは死刑宣告ではないか!」浜園さんは憤りを覚えました。
「この作戦は強制ではない。参加できないものは『×』を参加するものは『○』を書け。」
今までも命をかけて戦ってきた。生きて帰りたいわけではない。しかし最初から死ぬために行かなければならないのが・・・輝かしいパイロットとして人間の命を軽視する作戦に納得は出来ませんでしたが、
『国を守るため、家族を守るため・・・』※『○』と書くしかありませんでした。
※実は『×』と書いたものは、翌日特攻に行かされたという。

迷いが出ないように特攻作戦が告知されるのは、作戦の前日でした。その時書く遺書は、家族に向けて皆一概に明るく振る舞い書きました。「笑って散ってきます」「元気で往きます」
昭和20年3月25日。命令が下ります。
「死ぬ時は一緒だと言ったろ。あたったな」最も尊敬する上官、沓名さんもまた同じ場所にいました。
昭和20年4月1日。出撃する日が4月6日に決まりました。故郷の鹿児島県にある国分基地からの出撃。

浜園さんは兄が勤めていた学校に立ち寄った際、実家に帰っていた兄には会えませんでしたが、最後だと察した女性教師が、浜園さんの両親に電話を繋いでくれました。入隊してから母の声を聞くのは初めてでした。
「明日いくから・・・。色々とお世話になりました。」浜園さんはそれしか言葉が出ませんでした。
母はただただ啜り泣くだけでした・・・。そして満足な別れができないまま、特攻の朝を迎えました。
「お国のため家族を守るため」死ぬ理由を自ら探し、納得させました。
準備をしている浜園さんに面会の呼び出しがありました。兄でした。
兄は70キロの距離を一晩かけて駆けつけてくれました。「母ちゃんの手作りだ」それは母が作ってくれた団子でした。「俺の分も親孝行してくれ」そう伝えました。
母が作った団子。幼い頃を思い出す・・・。浜園さんは若い兵士に団子を差し出しました。
「お袋の味がします・・・」
甘みのない団子を、兵士たちは喜んで食べました。
団子には母の指の痕や指紋が付いていました・・・それを見て
普段泣かない浜園さんの目には大粒の涙があふれてきました・・・
ついに出撃の時。

浜園さんの後ろには、運命を共にする、中島一雄 偵察員(19歳)が乗り込みます。
「行くぞ!中島!」そして沖縄に向かい飛び立ちました。
母の団子と写真は連れて行かない・・・。そして遺書を書かなかった浜園さんはハチマキにこう記しました。
「元気にサヨナラ」最後の別れ・・・。故郷の上空からそれらを投げたのでした・・・。

目的地にたどり着く直前、後方の雲の切れ間に敵機を発見。『後方約30度』最悪の位置につけられた浜園さんは、近くに敵艦がいないか探します。「敵艦があれば突っ込む」しかし見当たらない・・・。
その時、最新鋭の敵機から放たれた弾丸が浜園さんに命中します。中島さんも撃たれていました。しかし敵機は弾切れを起こし、帰還していったのです。35分間にも及んだ戦闘。燃料が尽きかけていました。
浜園さんたちは「どうせ死ぬなら故郷の近くで死のう」空中をさまよいそして墜落しました。
しかし浜園さんは生きていました。機体は故郷、知覧の畑に墜落。体はボロボロしかし中島さんと共に生きていたのです。ただし、尊敬する上官、沓名さんは、特攻により帰らぬ人になっていました。

その後浜園さんは訓練兵を指導しながら出撃を待ちました。
「お前には素質がない」様々な理由をつけ部下の卒業を遅らせました。
「もう特攻にはやりたくない」その想いからでした。
8月初旬、2度目の特攻命令が下されます。しかし、それは実現しませんでした。8月15日、終戦。
多くの仲間がこの作戦により亡くなりました。
『国を守れなかった悔しさ』
浜園さんは涙に明け暮れました。
そして散った仲間を忘れない為、浜園さんの体には今もなお飛行機の残骸が残ってます。
「いつまでもあの日を忘れないために・・・」

浜園さんは後に声を詰まらせてこう語っています。
「その日その日が命がけ。若い人が特攻隊に行ったのは可哀想です。私は今でもそう思います。まだあどけない顔が残っとる・・・・・・連中が・・・殆どやったです・・・。今の日本と比べてあまりにも差がありすぎると思います。皆そういう意味で、特攻隊の100分の1、1000分、万分の1でも良い。その気持ちを汲んで、日本という祖国の為に・・・・・・頑張って貰いたいと思います。」

以上です。

実際に壮絶な体験をしたからこそ、きれい事でない真実が語られていて、心に深く伝わってきました。これほどの想いをして日本を守ってくれた先人たちに、私たちも気概を持って祖国を守ることで恩返ししなくてはいけないと思っています。万分の1でも気持ちを汲んで。
浜園重義さんは、2012年2月、88歳でその生涯を閉じられたということです。