相田 みつを(1924年(大正13年)5月20日 - 1991年(平成3年)12月17日)は、日本の詩人、書家で、平易な詩を、独特の書体で書いた作品で知られる。
彼は1954年に、材木商の末娘であった平賀千江と結婚した。千江は、「短歌の会」で相田と知り合ったが、不器用で収入がなかった相田との結婚に、周囲が反対したという。
一男一女をもうけて、家族四人は八畳一間で暮らしていたが、相田だけは三十畳のアトリエを独占していたという。
相田みつを美術館館長の相田一人は、長男である。長男の一人によると、相田みつをは兄2人を戦争で亡くしている。
それに、本人も戦争に参加していることから、戦争体験抜きに相田みつをの作品は語れないと話している。
画商の菅原澄によると、相田は自分では、「自分は書家ではない。在野の坊主だ」と常々言っていたが、人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったり、女性に大層もてたりしたという。
埼玉県加須市在住の書道家我峰(渡邉浅男)、女流書家の尾花也生(おばなやよい)など、懇意にしていた書道家仲間が多数存在した。
足利を代表する須永花火など、数社を有する須永グループ代表の須永昇は、相田のパトロンの一人であって、無名だった相田の作品を、展覧会の度に購入して活動を支えた。
現在も須永家では、相田の作品を数多く所蔵して、一部は相田みつを美術館に寄贈して、須永コレクションとして展示されている。
相田 みつを(1924年(大正13年)5月20日 - 1991年(平成3年)12月17日)は、日本の詩人、書家で、平易な詩を独特の書体で書いた作品で知られる。
書の詩人、いのちの詩人ともよばれている。栃木県足利市出身である。
人間の生き方について彼は語っている。
「あたらしい門出をする者には 新しい道がひらける」