人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 吉田松陰(よしだしょういん・1830年1859年)は、江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者で、明治維新の精神的指導者理論者である。「松下村塾」で、維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。

 

「吉田松陰の思想」

 

『一君万民論』

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

 

『飛耳長目』

塾生には、常に情報を収集して、将来の判断材料にせよ、と説いた。これが松陰の「、飛耳長目(ひじちょうもく)」である。

松陰は、東北から九州まで脚を伸ばして、各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。

長州藩に対しても、主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言して、また江戸や長崎に遊学中の者に、「報知賞」を特別に支給せよと主張した。

松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。

 

『草莽崛起』

「草莽(そうもう)」は、『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指して、転じて一般大衆を指す。

「崛起(くっき)」は、一斉に立ち上がることを指して、「在野の人よ、立ち上がれ」の意である。

安政の大獄で収監される直前(安政6年〈1859年〉4月7日)に、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で、「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

 

『福祉教育』

『西洋夷狄にさえ貧院、病院、幼院などの設ありて、下を惠むの道を行ふに、目出度き大養徳(やまと)御國において却って此の制度なき、豈に大缺典(欠点)ならずや』

 嘉永6年(1853年)9月に、実兄への手紙の中で、民への福祉教育の重要性を説いた。

 

『対外思想』

『幽囚録』で、「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」 と記して、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は領だった満洲台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピンロシア帝国領のカムチャツカ半島オホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。

 

 その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが、明治維新後に政府の中心で活躍したため、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

 

『吉田松陰に影響を与えた中国の思想家』

魏源

 清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに、東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。

 

王陽明

 松陰は王が創始した陽明学に感化されて、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。

 

文天祥

 南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであって、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。

この「正気の歌」の思想が、幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になって、それが昭和の軍人たちにまでつながった。

 

 吉田松陰(よしだしょういん・1830年1859年)は江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者明治維新の精神的指導者理論者である。「松下村塾」で維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」