スタンリー・ボールドウィン(1867―1947年)は、イギリスの政治家、実業家、貴族である。保守党に所属して、挙国一致内閣や保守党政権下で大臣職を歴任した後に、1923年にボナー・ローの退任で、代わって保守党党首となって、3度にわたって首相を務めた
彼は、1867年に中規模の鋳鉄業者の息子として生まれた。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学んだ後に、 父の会社に入社した。
1908年2月に父が死去して、父が議席を持っていたビュードリー選挙区から、保守党庶民院議員となる。
1917年にロイド・ジョージ挙国一致内閣で、財務担当政務次官、1921年から商務庁長官に就任する。しかし、大連立解消に主導的役割を果たした。
1922年にボナー・ローを首相とする保守党単独政権が誕生すると、財務大臣に就任して、アメリカと一次大戦の戦債についての交渉にあたった。
1923年5月に、ボナー・ローが病気退任した後に、代わって首相に就任した。帝国特恵関税制度の導入を目指して、1923年12月に、それを争点とした総選挙を行ったが、保護貿易への反発から保守党の議席を大きく減らして、1924年1月の新議会で不信任案が決議されて辞職に追い込まれた。
1924年1月に成立した、初の労働党政権の第1次マクドナルド内閣に対しては、ソ連との国交やキャンベル事件をめぐって批判を強めて、10月に総選挙に追い込んだ。
選挙戦中に発覚したジノヴィエフ書簡事件を利用して、労働党とソ連の関係を批判し、総選挙に大勝した。
1924年11月に、第2次内閣を組閣。1925年4月に財相チャーチルの主導で金本位制復帰を行ったが、石炭業界の海外販路への大打撃となって、給料削減により1926年のゼネストを誘発した。
強硬姿勢をもってゼネストの鎮圧にあたり、労働組合会議を全面降伏に追い込んだ。外交面では、外相A.チェンバレンの主導で1925年にロカルノ条約、1928年に不戦条約を締結して緊張緩和に努めた。
1926年10月から11月にかけては、帝国会議(英語版)を主催して、バルフォア報告書を発表した。しかし1929年5月の総選挙で労働党に敗れたため、下野を余儀なくされた。
1929年6月に成立した労働党政権の第2次マクドナルド内閣は、同年10月末の世界大恐慌により失業手当カットを巡って閣内・党内分裂する。
緊縮政策を取るマクドナルドは、労働党主流派と袂を分かち、ボールドウィンは国王ジョージ5世の仲介もあって、マクドナルドに協力することを決意した。
1931年8月に成立したマクドナルド挙国一致内閣に、枢密院議長として入閣する。マクドナルドの下で1931年10月の総選挙に臨み、保守党を中心とする挙国政府派が大勝した。
1932年7月から8月にかけての大英帝国経済会議に、イギリス政府代表として出席して、同年2月に英国議会で可決されていた帝国特恵関税制度を、自治領諸国に認めさせた。
1935年6月7日にマクドナルドが病気で退任して、代わって挙国一致内閣の首相に就任した。
11月に総選挙に及び、議席を減らすも多数派を維持した。ナチス政権下のドイツに対しては宥和政策を取り、ドイツ軍のラインラント進駐やスペイン内戦に対する軍事介入を回避した。
1936年12月には、ウォリス・シンプソンとの恋愛問題をめぐって国王エドワード8世に退位を迫った。1937年5月にネヴィル・チェンバレンに後事を託して、首相を退任した。
首相退任直後の1937年6月に、連合王国貴族爵位ビュードリーのボールドウィン伯爵に叙され、貴族院議員となる。1947年に死去した。
スタンリー・ボールドウィン(1867年―1947年)はイギリスの政治家、実業家、貴族で、保守党に所属して、挙国一致内閣や保守党政権下で大臣職を歴任した後に、1923年にボナー・ローの退任で保守党党首となって、3度にわたって首相を務めた。
人間の生き方について彼は語っている。
「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない」