人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

  野村克也(のむら かつや・1935年― 2020年)はプロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家で、選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成した。世界のプロ野球史上初の、捕手による三冠王となった。

 

 野村は、高校卒業後の1954年に、南海にテスト生として入団した。背番号は60で、同期入団には、宅和本司戸川一郎皆川睦雄らがいた。

 

 シーズンの序盤に、松井と並ぶ主戦捕手の筒井が故障で離脱したために、野村はテスト生ながら、1年目から小辻や外野手兼任の田中一朗と、二番手捕手の座を争うチャンスが巡ってきた。

 

 当時の南海は、シーズン中は中百舌鳥球場横の合宿所に一軍選手と二軍選手が同居しており、また関西のパリーグ球団は、二軍が別行動で遠征することはなく、一軍と帯同するか本拠地に居るかしたので、二軍に好調な選手がいると、即日一軍昇格させることが可能だった。

 

 まず、6月17日の西鉄戦で、代打として一軍戦初出場を果たしたが、この時は清水に手紙で、「目がくらんでボールが見えませんでしたし、足がぶるぶる震えて立っていられないくらいでした」と書き送ったほどの極度の緊張状態で三振に終わる。

 

 以後は守備からの途中出場が主となり、7月13日の近鉄戦ではスタメンでも起用された。その後、西鉄との優勝争いが終わると、また出場機会を与えられ、10月20日第二試合の大映戦では、スタメンマスクからのフル出場を果たして、中村大成とのバッテリーで完封を収めた。

 一方で、打撃面では9試合(代打1試合、捕手8試合)の出場で、11打数無安打に終わった。

 

 野村は入団から半年後に肩を傷めており、シーズン中は痛みをこらえながらプレーしていたが、オフには二塁への送球ができなくなるほど痛みが悪化しために、一塁手コンバートされた。

 

 2年目の1955年は、春先は肩痛の影響でバットを強く振り切れない状態だったが、この年に発足したウエスタン・リーグで打率2位の成績を残した。

 

 しかし、一軍での試合出場は無く、シーズンオフに球団事務所で職員から「国へ帰って百姓か土方でもやったらどうだ」と口頭で事実上の戦力外通告を受けたが、野村は「無給でも構いませんから残してください」と必死に食い下がり、職員を根負けさせて残留を勝ち取ったという。

 

 ただし、南海在籍時の1953年秋に、野村の入団テストの試験官を務めた笠原和夫は、高橋ユニオンズに移籍して選手兼任監督になっていたこの1955年オフに、捕手補強のため鶴岡に野村を譲ってほしいと頼んだが、「あいつは将来やれるぞ」と言われて断られたので、かわりに筒井を出してもらったと語っており、鶴岡は球団によるこの戦力外通告を承知していなかった可能性がある。

 

 その頃、翌年2月に春季キャンプを兼ねたハワイ遠征を実施するという計画が発表され、その際に二軍選手からブルペンキャッチャー要員を一名連れて行くという話が聞こえてきた。

 

 野村は秋季キャンプで必死に練習して、二軍首脳陣へ猛アピールし、その甲斐あって二軍からの推薦でハワイ遠征のメンバーに抜擢された。

 

 遠征には補助要員としての参加だったが、ハワイ到着後に正捕手の松井が肩の痛みを訴えて出場を控え、上記のように筒井も高橋へ移籍していたため、捕手に戻った野村にも試合出場の機会が回ってきた。

 

 すると野村は打撃でも好成績を残して、また肩の故障の回復具合も良く、結局ハワイ遠征ではほとんどの試合で野村がマスクを被ることになった。

 野村は1963年にこの時の事情を「松井さんや小辻さんにしても、エキシビジョン・ゲームぐらいは、辛い捕手なんかするより、ベンチに坐っていたほうがいい。いくら打っても野村みたいな二軍捕手に負けるはずがない、と思っていたに違いない」と回想している。

 

 観光気分が抜けない一軍選手たちが精彩を欠く中で、生き残りに必死な野村のプレーと練習態度は、鶴岡ら首脳陣にも好印象を与えていたが、遠征最終日の夜に、円子宏と共にハワイに住む戸川の親類の家に招待されて歓待を受けた際に門限を破ってしまい、野村と戸川・円子の三名は鶴岡に「貴様たちはハワイまで何をしに来たのか!」と一喝されて殴られた(他に宅和と島原輝夫も同様の理由で鶴岡に殴られている)。

 

 つかみかけた最大のチャンスを、自らの不始末で台無しにしたと思った野村は、すっかり落ち込んでいたが、翌日の帰路でウェーク島に寄港中に、鶴岡から「こんどのハワイ遠征は何も収穫はなかった。けどな。お前と野母(得見)だけは収穫やった」と語りかけられた。

 

 鶴岡は一連の事情について「野村は入団直後に肩を痛めた。ブルペン捕手の傍ら、打撃を生かすため一塁手をやらせていた。温暖なハワイでのキャンプで肩も回復し、このキャンプの成果となった。

 高橋ユニオンズの誕生にともなう捕手放出、ハワイの温暖さなど、どれ一つ欠けても後の野村はなかっただろう」と述懐している。

 

 こうして迎えた3年目の1956年には、背番号が筒井の着けていた19に変わり、開幕戦から一貫して一軍で起用される。

 野村は捕球・送球の未熟さが目立ち、チーム内にも野村より守備力に優れた松井を起用して欲しいとする意見が多く、野村も「強打者として買われていたから松井さんからレギュラーを奪えたが、自分が打撃に悪影響のある怪我をすれば、すぐに松井さんに代わってしまう」と思っていた。

 

 しかし鶴岡は、中心打者として育て上げるために辛抱強く野村を使い続け、前半戦は松井との併用だったが、後半戦は主に野村がスタメンマスクを被り、そのまま正捕手に定着した。

 

 野村と同時に一軍に抜擢された広瀬叔功も、やはり守備難に苦しんでいたが、

「致命的と言われかねない欠点に目を向けるのではなく、私(広瀬)なら足、ノムやんなら打撃という長所に着目して経験を積ませる」

 という鶴岡の方針で、二人ともエラーをするたびに鶴岡から「このバカたれ!」と怒鳴られながらも、スタメンを外されることなく我慢強く起用してもらったと述懐している。

 その甲斐あって、レギュラー獲得1年目で早くもベストナインに選ばれた。

 

  野村克也(のむら かつや・1935年― 2020年)はプロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家で、選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成した。世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王となった。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「1年目には種をまき、2年目には水をやり、3年目には花を咲かせましょう」