セネカ(紀元前1世紀頃―紀元後65)は、ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人 である。
ネロ帝の師となるも、遠ざけられて、自殺した。
彼は、ローマ帝国の属州ヒスパニア(スペイン)の、コルドバ生まれた。若くしてストア派の哲人の名声を得ていた。
カリグラ帝、クラウディウス帝の時には罪を得て、8年をコルシカ島で過ごした。アグリッピーナは、セネカを息子ネロの家庭教師にした。
ネロが皇帝になると、セネカはその政治の実権を握り、5年間はネロの善政をささえた。しかし、ネロ帝の暴政が始まるとそれを制御することが出来ずに、辞任し隠棲する。
狂気を増したネロは、セネカに陰謀の罪を着せて、65年、セネカは自ら毒を仰いで死んだ。彼は多くの随筆を残しており、ローマ帝政期の代表的なラテン語の文章家、哲学者として知られている。
ネロの治世初期のあいだ、セネカは権勢と富をほしいままにした。ネロからの賜金のほかに、属州民への高利貸しや南海・インド方面との貿易などによったものであった。
元老院議員の商取引や、高利貸しを禁じた法は、もうすっかり死文化していた。彼の邸宅は、ローマ帝国内各地からはもとより、南海・インド方面からの珍奇な財物や宝石で飾られていた。
そのようなセネカの蓄財を、哲学者に相応しくないと疑われて、告発されたこともあった。ネロとの関係が良かったころは、この告発は不問とされたが、セネカ自身も弁明の必要を感じ、『賢者の一貫性について』と『幸福な人生について』の二編を著して、述べた。
「富は賢者にとって望ましいものではあるが、なくてはならないものではない。富を制御することのできないのは弱心者である。しかし賢者は快適に富を獲得し、享楽すると同様にいつでもそれを放棄する心がまえがある。貪欲は彼の中に座を占めず、貧困は彼にとって恐怖ではない。いやむしろ安心である。・・・哲学者の富が彼のもとに訪れた時、それを拒むべきではない」などと弁解した。
後に、ネロとの関係が悪化してそのもとを去り、第一線を退くと、ストア的な簡素な生活に帰り、主として自分の菜園からとれた野菜、果物をとり、生水を飲んで身体を支えた。
そのようなとき、ピソという元老院議員のネロ暗殺の陰謀事件が発覚して、セネカがそれに荷担していた証拠はなかったが、ネロによって自殺を強要された。
70歳を過ぎていたセネカは、友人たちの前で「(ネロが)母を殺し、弟を消したら、先生を殺す以外何も残っていないではないか」と言って、妻のパウリナとともに血管を斬った。
二人とも死ねずに苦しんでいると、ネロは妻まで自殺させたと言われることを恐れて、パウリナを助けるように命じ、セネカには毒を飲ませ、熱湯風呂に入れ、発汗室の熱気で息を断った。
人間の生き方について彼は語っている。
「運命は、志あるものを導き、志なきものをひきずってゆく」