人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

作家 福元早夫のブログ

人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 開高 健(かいこう たけし/かいこう けん・1930年1989年)は、日本小説家である。組織と人間の問題を扱った『パニック』『裸の王様』や、ベトナム戦争取材の体験をもとにした『輝ける闇』などの作品がある。

 

 また、趣味釣りについて、世界各地での体験を綴ったエッセイ『フィッシュ・オン』『オーパ!』などでも知られる。

 

 彼は、大阪市天王寺区で、父・正義、母・文子との間に長男として生まれる。7歳の時に住吉区北田辺(現・東住吉区)へ転居する。

 

 子供時代は、紙芝居と本が好きで、江戸川乱歩山中峯太郎海野十三などを読んでいた。1943年4月に旧制天王寺中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ入学する。

 勤労動員の合間に、内外の文学作品を乱読した。5月に国民学校教頭であった父が死去する。

 

 第二次世界大戦後に、旧制大阪高等学校文科甲類(英語)に入学するが、学制改革により1年で旧制高校を修了して、大阪市立大学法文学部法学科(現・法学部)に入学した。

 

 リルケの『マルテの手記』や、サルトルの『嘔吐』を読んで衝撃を受けて、『嘔吐』はその後も繰り返し愛読した。戦後の作家では、大岡昇平武田泰淳をよく読んだ。

 

 当時の文学論の仲間に、高原慶一朗がいて、大学在学中に、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加する。

 1951年に、処女長編小説『あかでみあ めらんこりあ』を私家版として友人間に配った。また、パン焼き工や旋盤見習い工として、町工場を転々とした。

 

 1952年1月に、同人仲間だった詩人の牧羊子壽屋勤務)と結婚する。同年7月13日に、長女の開高道子が誕生する。

 1953年2月に、大学在学中に洋書輸入商の北尾書店に入社する。1953年12月1日に大阪市立大学卒業した。

 

 1954年(昭和29年)2月22日、洋酒会社壽屋(現サントリー)社員であった羊子が、育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用される。

 

  1956年(昭和31年)には、東京支店に配属されて、文案家(コピーライター)として働き、PR誌『洋酒天国』の編集や、ウイスキーのキャッチコピー(トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」が有名)を手がける。

 

『洋酒天国』は開高の編集した4年間で、発行部数が1万部から13万部になった。また1954年から「円の破れ目」などの習作を、『近代文学』誌に発表する。

 

 自然主義心理主義アナキズムといった潮流に限界を感じ始めて、1957年に「シチュエーションの文学」を意図して、野ネズミの大発生を題材にした「パニック」を執筆する。

 

 佐々木基一の計らいで、『新日本文学』に発表され商業誌デビュー、寓話作家とも呼ばれた。続いて伊藤整に始まる「組織と人間」論のモデル作品とも見られる「巨人と玩具」「裸の王様」を発表する。

 

「裸の王様」で、1958年芥川賞を受賞する。これを機に壽屋を退職して(1963年まで嘱託契約)、執筆業に専念する。

 遅筆で知られ、受賞後第一作となる「文學界」から依頼された原稿を、締め切り間近になっても上げることができなかった。

 

 開高は先に 、講談社の『群像』に提出していた原稿を持ち帰り、「文學界」に提出してその場を凌いだ。

 しかし、講談社の怒りを買って絶縁状を叩き付けられ、16年もの間は、講談社から干されてしまう。

 大阪の軍需工場跡から鉄屑を持ち出す”泥棒部落”、”アパッチ族”とも呼ばれた集落を取材して、『日本三文オペラ』を発表する。

 

 1960年に、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として、大江健三郎らとともに中国を訪れて、毛沢東周恩来らと会見する。

 随筆『地球はグラスのふちを回る』では、当時の大江とのエピソードが記されている。帰国後またヨーロッパを訪問して、大江健三郎とともに、パリでサルトルと面会する。

 

 1964年11月15日に、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ行く。サイゴンマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して、最前線に出た際に、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還した。

 総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。このとき一時は「行方不明」とも報道された。

 

 この時のルポタージュ『ベトナム戦記』を発表して、その後3年をかけて凄烈な体験をもとに、小説『輝ける闇』を執筆する。

『夏の闇』『花終わる闇(未完)』とともに3部作となる。

 

 帰国(1965年2月24日)後は、小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退して、過激化する左派とは距離を置くようになる。

 

 その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一向井敏などの右派系文化人を世に出した。

 熱心な釣師でもあり、日本はもちろんブラジルアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『フィッシュ・オン』『オーパ!』など釣りをテーマにした作品も多い。

 

 現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。

 

 1974年から、神奈川県茅ヶ崎市に居住する。1982年から『週刊プレイボーイ』の読者からの人生相談コーナー「風に訊け」を連載する。

 この中で、開高健という名前について、「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と綴り、開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。

 

 1989年に、食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも、東京都済生会中央病院に再入院する。食道腫瘍に肺炎を併発し死去した。58歳であった。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「成熟するためには、遠回りをしなければならない」