アナ・エレノア・ルーズベルト(1884年―1962年)は、アメリカ合衆国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻(ファーストレディ)であって、アメリカ国連代表、婦人運動家、文筆家でもある。
リベラル派として高名であった。身長5フィート11インチ(約180cm)である。
アナ・エレノア・ルーズベルトは1884年10月11日、ニューヨーク37番街西56で、エリオット・ルーズベルト、アナ・エレノア・ホール夫妻の間に生まれる。
エリオットは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟であって、エレノアはセオドアの姪に当たる。
父はハンサムだったが、アルコール中毒患者となった。母は美人であったが、冷酷であった。両親とも大富豪の名門で、金銭的にはとても恵まれていたが、家庭環境は理想とはかけ離れたものだった。
両親と早くに死別したために、母方の祖母の下で、家庭教師によって、厳格に養育される。その後に、イギリスに渡って、ロンドン南西部の、ウインブルドンにあった女学校に入学して、卒業した(1899-1902)。
そのときの女学校の校長で、フェミニストとしても有名だったマリー・スーヴェストゥールの進歩的な考えに大きな影響を受ける。
帰国後にニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にして、大きな衝撃を受ける。
このときの体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力であったともいえる。
1905年に、父親の五いとこに当たるフランクリン・ルーズベルトと結婚して、5男1女の子供をもうけた。
もともとエレノアは、内気で子供の教育に熱心な妻であり母親であったが、夫フランクリンの政界入りに伴い、エレノアもニューヨーク州民主党婦人部長を務めたことがきっかけで、家庭の外で活躍を始めた。
1921年に、夫のフランクリンが突然ポリオに罹患して、政治活動を断念しようとしたときは、彼女は、フランクリンにとって政治こそが精神的に立ち直るために必要であると励まして、ルーズベルトが復帰する原動力となったことは良く知られている。
1918年に、自分の秘書ルーシー・マーサ・ラザフォードと、夫との不倫を知った(そしてそれを容認した)ことも、政治への情熱の一助となったかもしれないと評されている。
一方で、1928年に出会い、長年に亘り強い友情で結ばれていた女性記者ロレーナ・ヒコックとの関係は、同性愛であったのではないかとされている。
また、夫が秘書のマーガレット・ルハンドらと不倫関係にあるのと同時期に、エレノアは夫の側近のハリー・ホプキンスやボディガードのアール・ミラーと不倫関係にあって、夫妻は共にお互いの不倫を知り、それを認め合い、更にそのことで「励ましあう」関係だった、という。ミラーとの関係はエレノアが亡くなるまで続いた。
大恐慌後の世界的な不景気下の1933年3月4日に、ルーズベルトが大統領に就任した。その後、ルーズベルトが3選されたホワイトハウス時代の12年間に、エレノアは夫フランクリンの政策に対して大きな影響を与えた。
ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的政策は、ほとんどがエレノアの発案によるものである。
エレノアは、ルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対している。さらに、この間に多くの友人を得たことが夫の死後「第二の人生」を開く大きな財産となった。
1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、エレノアは家族と共にニューヨーク州ハイドパークの私邸に退き、そこで静かな余生を送るつもりだった。
しかし、夫の後を受け継いだトルーマン大統領の要請で、国際連合の第1回総会代表団の一員に指名される。
上院の同意を得て正式に任命されたエレノアは、1946年にロンドンに赴任し総会に参加した。ロンドンの総会では、人権委員会に参加して、委員長に選出される。
人権委員会は、世界人権宣言の起草に着手して、1948年12月に国連総会で採択された。
エレノアはそのまま、1952年までアメリカの国連代表をつとめている。国連代表を退任した1953年からは、各国の女性団体に招聘され、女性の地位向上に八面六臂の活躍をした。
同年に来日して、各地で講演したほか、昭和天皇と香淳皇后と会見している。更に香港、ギリシア、トルコ、ユーゴスラビアの各国を精力的に訪問する。
ユーゴでは、チトー大統領と会談する。1957年には、当時のソビエト連邦を訪問して、フルシチョフソ連共産党第一書記と会談している。
彼女は、政治的には伝統的な民主党リベラル派に近い位置にあって、人種差別問題に対する態度は果敢かつ大胆だった。
1956年の大統領選挙の民主党予備選では、アドレー・スティーブンソン候補を支持した。
1960年の大統領選でも、民主党候補に指名されたケネディ候補に対して、ケネディが冷戦初期に下院非米活動委員会に加わりジョセフ・マッカーシー議員の赤狩りに積極的に加担していたことから不支持を表明している。
これは、彼女が左翼運動を支持していたからではなく、リベラル派(自由主義者)として表現の自由や思想の自由を最大限に尊重していたからだった。
彼女は、1962年11月7日、ニューヨーク市の自宅で死去、78歳だった。死後に、息子のエリオット・ルーズベルトは、エレノアを主人公とした推理小説を発表した。
内容は大統領夫人のエレノアが、警察を助けて犯罪を暴くというもので、実在の場所や当時実在した人物が登場するが、筋書きはあくまでもフィクションである。
発売当時こそ話題をさらったが、ベストセラーにはならなかった。それは通常のファーストレディならともかく、ことエレノア・ルーズベルトに限っては、ノンフィクションの伝記を書いても有り余るほどの事績と逸話に豊富な人物だったからにほかならない。
エレノアの活躍は、最も活動的なファーストレディ、人権活動家、コラムニスト、世界人権宣言の起草者など、多岐に亘る。
しかし彼女の最も大きな業績は、「人権擁護の象徴」として光り輝く存在であったことに尽きる。エレノアは文字通りリベラル・アメリカのシンボルであり、スターだった。
誰もが納得できるそうした存在が、それまでのアメリカにはなかったのである。そのエレノアが歴史上の人物となった今日でも、彼女に対して崇敬の念を抱く者は多い。
彼女の語録である。
「歴史の光に照らしてみても、恐れるよりは希望をもつ方が、やらないよりはやる方が、より賢明なことは明らかである。それに、『そんなことできるわけがない』という人間からは何一つ生まれたためしがないということも、動かすことのできない事実なのである」
「この世界に平和を創造するためには、一人の人間との理解を深めることから始めなければなりません」
「新しい人に近づくとき、冒険心をもって接することにすれば、今までにない新しい人格、新しい経験、新しい考えの水脈を発見して、それに無限の魅力をおぼえることがきっとあるに違いない」
「女性というのは、さまざまな障害をはねのけて、1センチずつ前進するものなのです」
「一つが切り抜けられたら、次には何でも切り抜けられるはずではないか。立ち止まって、恐怖と正面から対決する度に、人には力と勇気と自信がついてくる」
「普遍的な人権とは、どこから始まるのでしょう。実は、家の周囲など、小さな場所からなのです。あまりにも身近すぎて、世界地図などには載っていません。ご近所の人、かよっている学校、働いている工場や農場、会社などの個人個人の世界こそ、始まりの場なのです」
「私たちが本当に強く願い、その願いに対して確信を持ち、その実現のために誠心誠意、行動するならば、人生において、願いどおりに変革できない分野など、何ひとつないと確信しています」
アナ・エレノア・ルーズベルト(1884年―1962年)はアメリカ合衆国第32代大統領ルーズベルトの妻で、国連代表、婦人運動家、文筆家であった。
人間の生き方について彼女は語っている。
「自分にはできないかも知れないという恐れに真正面から立ち向かうたびに、あなたは強さと自信と経験を勝ち取るのです。だから、できないと思うことに挑戦してごらんなさい」