人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 ナポレオン・ボナパルト(1769年1821年)は、フランス革命期の軍人革命家で、フランス第一帝政皇帝に即位して、ナポレオン1世(在位:1804年 - 1814年1815年)となった。

1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えば、ナポレオン1世を指す。

 

 フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を確立した。大陸軍フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリスロシア帝国オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。

 

 対仏大同盟との戦いに敗北して、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき南大西洋の英領セントヘレナにて没した。

 

 彼は1769年に、イタリア半島の西に位置するフランス領の島コルシカ島アジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子ども(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。

 

 島を追われて、フランスで一生を暮らすと決めて、25歳となる1794年頃から、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名して、署名も改めた。

 

 ブオナパルテ家の先祖は、中部イタリアトスカーナ州に起源を持つ、古い血統貴族である。それがジェノヴァ共和国傭兵隊長としてコルシカ島に渡って、16世紀頃に土着した。

 

 判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリ副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前に、フランス側に転向して、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、フランス貴族と同等の権利を得た。

 

 旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には、貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロは、やがてコルシカ総督とも懇意になって、その援助でナポレオンと兄のジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。

 

 ナポレオンは当初は、修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校へ国費で入学して、数学で抜群の成績を修めたという。

 

 1784年パリ陸軍士官学校に入学する。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。

 

 大砲を用いた戦術は、のちの彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は、58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。

 

 この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際に、ナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、この頃から指揮官としての才能があったとされるが、実話かは定かではない。

 

 幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れて、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読して、無口で友達の少ない少年であった。

 

 学校ではコルシカなまりを馬鹿にされて、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ( 藁鼻)とあだ名された。

 裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、のちに秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌであった。

一方で、癇癪持ちでもあって、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れて、その頃から断続的に文学活動もしていた。

 

 ナポレオン・ボナパルト(1769年1821年)はフランス革命期の軍人で、革命家である。フランス第一帝政皇帝に即位して、ナポレオン1世(在位:1804年 - 1814年1815年)となった。

 1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め」