人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 太宰 春台(だざい しゅんだ・1680年1747年)は、江戸時代中期の儒学者経世家である。「春台」はで、は純、は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。

 

 彼は、信濃国飯田城下生まれた。平手政秀汎秀の子孫で、父・言辰の代に、下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となって、平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い、飯田藩士となった。

 

 だが、堀親常により改易されて、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修めた。

 元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩松平氏に仕えて、元禄9年(1696年)17歳の時に、儒学者の中野撝謙に師事して、朱子学を学ぶ。

 

 元禄13年(1700年)に21歳で官を辞して、以後10年間は畿内を遊学する。その間に漢詩天文学地学朱子学などを懸命に勉強した。

 宝永元年(1704年)に富士山に登って、京都に入った。そこで、伊藤仁斎の講義を聴き、人格にうたれた。

 

 宝永6年(1709年)の30歳の時に、大坂に入り、結婚した。正徳元年(1711年)に、32歳で自由の身になって、江戸に戻った。

 正徳3年(1713年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒学特に古文辞学へと転向した。

 

 正徳2年(1712年)に下総生実藩森川俊胤に再仕官した。だが、これも正徳5年(1715年)36歳で辞して、以後生涯仕官することはなかった。

 

 正徳5年(1715年)36歳の時に、本格的に研究・執筆活動に入るとともに、江戸の小石川を開き、松崎観海・文雄・五味釜川・稲垣白嵓・渡辺蒙庵・関口黄山・小宮山昌世・原雲沢など多くの門人を育てた。また、何人かの大名から支援された。

 

 のちに徂徠の説を批判して、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。

 また、征夷大将軍こそが「日本国王」であって、鎌倉室町江戸の3時代に、それぞれに別個の国家が存在したと説いた。

 

 その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。著書に『経済録』・『経済録拾遺』・『産語』・『聖学問答』・『弁道書』などがある。

 

『経済録』は「世ヲ経(おさ)メ、民ヲ済(すく)フ」という「経世済民」を主題としていて、広く政治・食貨(経済)・社会・教育・軍事について、春台の思想が紹介されている。

 

古文考経孔氏伝』は、四庫全書に収録される数少ない日本人による漢籍である。『三王外紀』は東武野史訊洋子が著者と書かれているが、征夷大将軍を国王と見る記述などから、春台の著作であるという説が古くから唱えられているが、異論も存在している。

 

 彼は、延享4年(1747年)、68歳の時に、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中天眼寺にあって、都の指定史跡となっている。

 出身地の長野県飯田市中央通り3丁目には、春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は1947年(昭和22年)の飯田大火で焼失して、現在は2代目である。

 長野県民歌『信濃の国』の歌詞中にも登場している。

 

 太宰春台(だざいしゅんだい・1680―1747)は、江戸中期の儒学者で、荻生徂徠 (おぎゆうそらい) の門人安藤東野と交わって、重農主義的な武士本位の経済政策を説き,詩文より経済学の面で徂徠の説を継承・発展させた。

 主著に『経済録』『産語』などがある。

 

 人間の生き方について彼は語っている。

「糞水を掬まざれば善農と成ること能はず」(不可能に思えることに粘り強く挑戦する者でなければ達成可能に思えることも成し遂げることはできない)