アランことエミール=オーギュスト・シャルティエ(1868年―1951年)は、フランス帝国(フランス第二帝政)ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の哲学者、評論家、モラリストである。
ペンネームのアランは、フランス中世の詩人で、作家であるアラン・シャルティエに由来する。1925年に著された『幸福論 (アラン)』で名高いが、哲学者や評論家としても活動して、アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで、合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えた。
体系化を嫌って、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法で、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じた。
フランス文学者の桑原武夫は、「アランの一生は優れた「教師」の一生であったと言えよう」と評している。
また、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは、1949年にアランの伝記や教えをまとめた『アラン(Alain)』の中で、アランを「現代のソクラテス」と評している。
アランは、1868年3月3日、フランス帝国ノルマンディー地方(現:オルヌ県モルターニュ=オー=ペルシュ)に生まれる。リセ・ミシュレやエコール・ノルマル・シュペリウールに入学して、哲学を専攻した。
学生時代に、哲学の面ではカントやヘーゲル、スピノザ、アリストテレス、プラトンなどの影響を受けて、文学の面ではバルザックやスタンダールを好んで読み、批評の面ではサント=ブーヴやルナン、フェルナン・ブリュンティエールの影響を受けた。
特にリセ・ミシュレで教師を務めていた合理主義哲学の立場を取ったジュール・ラニョーの講義を受けて、後々まで大きな影響を受けた。
卒業後に、ポンティヴィやロリアン、ルーアンに位置するコルネイユ高等学校などのリセで教師を務めた。
1909年から、アンリ4世高等学校に哲学を教える教師として務めた。なおコルネイユ高等学校の教え子に、同国出身の評論家アンドレ・モーロワが居た。
モーロワは、後にアランの伝記・教えをまとめて、『アラン(Alain)』を1949年に出版した。モーロワの『アラン』によると、アランは「偉大な書物の中には必ず哲学がある」との信念に基づき、ホメロスやバルザックの本を読ませたという記述がある。
過去の偉大な哲学者達の思想と、アラン独自の思想を絡み合わせた哲学講義は、学生に絶大な支持を受けて、レイモン・アロンやジョルジュ・カンギレム、シモーヌ・ヴェイユ、ジュリアン・グラックなどの作家・学者・思想家を輩出した。
ドレフュス事件に関する文を著したのが、アラン最初のジャーナリストの経験で、急進主義的な文章を著した。
アランというペンネームを持ち始めたのは、ルーアンで教師を務めていた1903年頃で、アラン名義でルーアンの『デペーシュ・ド・ルーアン』紙に週に一回、文学や美学、教育、政治に関する短いエッセイ形式のコラム「プロポ」を寄稿し始めて、このコラムによって文名を博した。
第一次世界大戦が始まると、46歳で自ら願い出て志願兵となり、戦争の愚劣さを体験するために好んで危険な前線に従軍した。
戦争が終わり、除隊後の1921年に、戦時中体験した出来事を綴った『マルス、または裁かれた戦争』を著したが、愛国者の怒りを買った。
再びアンリ4世高等学校に戻り、1933年頃まで教師を務めた。また、1937年に出版された『大戦の思い出』も『マルス、または裁かれた戦争』と同じく、戦時中に体験した出来事を綴った本である。
なお1920年に出版された『芸術論』は、戦時中に草稿が書かれた。教師を退職した後は、亡くなるまで執筆活動を続けた。1951年6月2日にフランスのル・ヴェジネにて83歳で没した。
アランは、1920年刊行の『芸術論集』で、芸術霊感説を否定して、芸術とは理性と意志とが素材を克服して、想像力に統制を加える事だと考えた。
また、著書『イデー』に於いて、デカルトについて「心身問題については今もなおデカルト以上に優れた教師は見当たらぬ」と評している。
アランは新しい哲学体系などの体系化を嫌い、過去の哲学者や思想家の優れた意見の特色を示して、人間理性の良識としての高貴さを評価した。
アランの人生哲学は、プラグマティズムの思想とは異なって、「良く判断することは善く行為することである」として、人間は自身が強く意志することによってのみ救われると言ったオプティミズムで貫かれていると考えた。
アランは(1868年―1951年)はフランスの哲学者、評論家、モラリストである。1925年に著された『幸福論』で名高い。
哲学者や評論家としても活動して、合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半のフランスの思想に大きな影響を与えた。
人間の生き方について彼は語っている。
「田畑には一つの政治が生まれ、維持される。ここでは年齢がすべてである」