人間の生き方 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

 第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン1788年― 1824年)は、イングランド詩人で、バイロン卿として知られ、単に「バイロン卿」というと、この第6代男爵を指すことがほとんどである。

 

 ゲーテが「今世紀最大の天才」と賞賛した19世紀ロマン派の詩人で、ケンブリッジ大では悪友と交わって遊び暮らしたが、外遊後、長編物語詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』を発表して有名になった。情熱家で、ギリシア独立軍に参加したが、熱病にかかって没した。

 

 ジョン・バイロン大尉(第5代バイロン男爵ウィリアム・バイロンの甥)と2番目の妻キャサリン・ゴードンの間にロンドンに生まれ、2歳の時にスコットランドアバディーンに移った。

 

 1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド・アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。

 

 翌年ロンドンに出て1801年から1805年をハーロー校で過ごし、1805年ケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を過ごした。

 

 詩集『懶惰の日々』(1807年)を出版したが、翌年エディンバラ・レビューに非難されて、諷刺詩『イギリス詩人とスコットランド批評家』(1809年)を出版して鬱憤を晴らした。

 

 1808年にケンブリッジを去り、1809年から1811年までポルトガルスペインギリシャなどを旅し(ナポレオン戦争の影響でこのグランドツアーの際には地中海地方を旅した。)、帰国後ロンドンに住み、1812年上院で紡績工のラッダイト運動を弾圧することに抗議する演説をおこなって名を挙げた。

 

 この年旅行の成果である『チャイルド・ハロルドの巡礼』1・2巻(1812年)を出版して、生の倦怠と憧憬を盛った詩風と、異国情緒が時代の好尚に投じて、大評判になった。

 

 その間に、社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年にアナベラ・ミルバンクと結婚した。このときにもうけた子が世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレスである。

 

 だが翌年に別居して、その乱れた生活が指弾を受けたため、イギリスを去りスイスのジュネーヴシェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、ヴェネツィアラヴェンナピサジェノヴァで退廃した生活を続ける。

 

 特にグィッチョーリ伯爵夫人英語版)との関係が有名である。多くの作品の中で、冷笑と機知に満ちた『ドン・ジュアン』(1819年 - 1824年)がこの期の代表作である。

 

 1823年ギリシャ暫定政府代表の訪問を受けた彼は、2年前から始まったギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意し、1824年1月にメソロンギに上陸し、コリンティアコス湾の要衝、レパントの要塞を攻撃する計画を立てたが、熱病により同地で死亡した。

 

 彼の死後145年が経過した1969年に、ウェストミンスター寺院に彼を記念したコーナーが設けられた。

 

 いわゆるバイロニズムは、当時の偽善と偏見を嘲罵し、イギリス・ロマン主義を代表する作風であり、ロシアをふくむヨーロッパ諸国の文学に影響を与えた。日本でも明治以来もっともよく知られたイギリス詩人の一人である。

 

 バイロン(1788―1824)はイギリスロマン派の代表的詩人で、ゲーテに「今世紀最大の天才」と賞賛された彼の詩の影響は、全ヨーロッパに及んだ。

 幼時に父を失い、母親の異常な愛情と、右足首に障害があり、不幸な幼年期を送った。

 

 人間の生き方についてバイロンは語っている。

「われわれは人を愛する心の薄きにあらず、自然を愛する心の深きなり」