連載小説「黄金色の風景」 | 作家 福元早夫のブログ

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人生とは自然と目前の現実の、絶え間ない自己観照であるから、
つねに精神を高揚させて、自分が理想とする生き方を具体化させることである

連載小説

「黄金色の風景」

連載第十六回

 

(六) のⅠ

 

「なぜ、田んぼに水を溜められるのか、それに、たまった水はどうして、地面にしみこんで、無くなってしまわないのか」

 顔や首まわりの汗をタオルでぬぐいながら、ひと休みしたタケルは天空にむかってひとりごとをいった。すると太陽の光のなかから、歯切れのいい祖父のことばが跳ね返ってきた。

 

「いうまでもないことだが、まったく染み込まないわけではない。田んぼは、地下水を涵養(かんよう)する重要なはたらきをもっているのよ。涵養というのは、降った雨や川の水などが、地下に浸透して、帯水層に水が流れ込んでいくことよ」

 

「帯水層というのは、地下に水が蓄えられている地中の層のことで、ここは水が流れにくい粘土などの地層にはさまれて、砂や小石などの水を流しやすい層になっているの」

 耳を澄ましていると、こんどのその声は国生百合子先生のようだった。

 

祖父も祖母も、国生先生もいまは他界していない。だけど子どものころに、学校の図書室の本で学習して、身につけたものはいまも生きていて、太陽の光のなかからタケルの心にはたらきかけてきた。

 

「なぜ水を田んぼに溜められるのか、水は地面にしみこんで、なぜ無くなってしまわないのか」

その理由はこうであった。水田の底にあたる地中の、三十センチくらいのところには、粘土の層がある。そのために、水がしみ込んで行きにくくなっているのである。

 

 この粘土層は、何年ものイネを作りつづけていると、強く固くなっていく。そのために、水をためる機能がますます高まっていく。この粘土で作られた層は、陶器などの焼き物の素材になるほどの、質の良い土なのである。

 

そのうえに田んぼの周囲は、畦(あぜ)とよばれる小さな土手で、頑丈に囲まれている。こうすることで、水がたまる仕組みになっているのである。

 だが、田んぼは水が溜まれば、それでいいというものではない。秋になってイネを刈るときに、水がたまっていると作業ができなくて大変なことになる。それにイネの収穫が終わったあとに、こんどは畑として、麦などの作物を植えなければならない。

 

そのためには水をぬいて、土を乾燥させておかなくてはならない。だから田んぼは、必要に応じて水をためたり、抜いたりするための、排水路の役割が重要になってくるのである。