連載小説・小説集「工場」から
ソフトボール
(連載第八回)
ミノやんは一球目も二球目も空振りして三球目をまっていた。門脇は勝負するかまえにでた。大きく胸をはって、速い球をミノやんの胸もとに放りこんだ。ミノやんが思いっきりバットを振りまわした。するとバットはミノやんの手からはなれ、なにか生き物のようにピッチャーの門脇の頭上をとびこえ、セカンドベースの近くまで飛んでいってコロコロころげまわった。
「……あかーん、なさけなか」
ミノやんは熊本弁とちゃんぽんでくやしそうに叫ぶと、降参といったふうに左手を高々とあげた。ミノやんのその左手には、親指だけが一本、とりのこされた植物のようにはえていた。
そうだ。去年のいまごろ、ミノやんは工場のシャーに左手を噛まれ、四本の指をなくしたのだ。夜勤のとき、あと一時間もすれば終業のベルが鳴るというときだった。夜がすっかり明けきって、工場の機械がしらじらしく浮いて見えた。
ぼくはラインの出側の巻き取り操作盤の運転をしていた。ステンレスの長い帯が、白く洗浄されて川のように流れてきた。溶接された継ぎ目がやってきた。ミノやんはシャーの前に立っていた。継ぎ目がシャーの刃のまえにきた。
ぼくはコイルリフトをあげ、EPCつまりエッジポジションコントロールを、自動から手動にきりかえた。継ぎ目がシャーのまえにきた。ミノやんが止め、と右手をあげた。ヨシッと声をださずにぼくは叫んで非常停止ボタンを押した。
「……ええか」とミノやんがいった。「ヨッシャ―」とぼくがいった。ミノやんはシャーのスイッチボタンを押した。五ミリの鋼板がガリガリと不気味な音をたてて千切れる。溶接した部分を切断しなくてはならない。二十センチばかりぼくはシャーにおくった。
「ええか……」とミノやん。「ヨッシャ―」とぼく。ミノやんがスイッチをおした。そのときだった。ミノやんは溶接した部分の切れっぱしを取り出そうとして、あわててシャーのなかに左手を突っこんでしまったのだ。
ミノやんは右手で左手を強くおさえ、そこらじゅうをころげまわった。一瞬、何ごとかとぼくは思った。ミノやんがふざけていると思えたのだ。周囲に何人かいたが、しばらく誰も気がつかなかった。
夜が明けて工場のトタン屋根に朝日がさしてくると、なぜかぼくらは奇妙な焦燥感におそわれる。わけのわからないけったいな衝動にかられ、思いきり叫び声をあげたくなったり、ヘルメットも作業服もぬぎすてて、素っ裸で工場の機械のなかを駆けまわりたくなる。安全通路を転げまわっているミノやんも、そのせいだとぼくは思ったのだ。だがミノやんのそれは、あまりにも真にせまりすぎていた。
ミノやんが大けがをしてからというもの、工場の中が非常にうるさくなった。安全、安全と課長や部長が叫ぶし、作業長が目を光らせて現場を巡回する。スパナを使ってひとりでボルト締めをするときでも、ぼくらはイイか、ヨシと呼称して確認しなくてはならない。
工場のあちこちで、叫び声がトタン屋根にこだまする。エエか、とだれかがやけくそで叫ぶ。すると別な声が、ヨッシャ―とまたやけくそ声で怒鳴る。やけくそとやけくそが、まるでシュプレヒコールのように工場の内部にとどろく。
仲間はみんな知っているのだ。工場管理者のさけぶ安全第一の叫び声が、単なる合理化の一環でしかないということを。だって、怪我をするぼくらが悪いのではなくて、怪我をするような悪い設備があるからいけないのではないか。
設備投資には金をつかうが、安全はぼくらに責任をおしつけ、金をつかわないといった、腹黒い魂胆が見えすいでいるではないか。
ちかごろのぼくが、風呂場のなかで妙な癖がついてしまったのも、じつをいえばそのあたりからきているのだ。つまりぼくの目は、人の股間のあそこへばっかりいってしまう。それから知らずしらずのうちに、ぼくは他人の性格判断みたいなことをしている。
馬場や郷田や、門脇や犬飼や、ぼくらと一緒に風呂にはいる現場の仲間は、すべて捉えているつもりだ。郷田みたいにひねくれてしまって、あさってをむいたものや、気の弱いお人よしの門脇みたいに、先っちょをほんの気持ちだけのぞかせたかわいらしいものなど、人それぞれいろいろあるけれど、本音はみんな正直で、さびしいのかもしれない。見るとはなしにちらっとみていてそれがわかるのだ。
目がその人の心のうごきをあらわすというけれど、となるとあそこは、かくれたもうひとつの顔、いやむしろ、魂みたいなものなのかもしれない、とぼくは想ってしまう。十五年前、ぼくが工場に入社したころ、「現場の職工は牛馬になって働け」といっていたあの男が、いまでは工場長になっている。
「わたしのモットーは人間愛だ。安全第一はヒューマニティだよ」といって、ちかごろその口ぐせをかえた。本音がわからない。ぼくはいちど、部長や工場長や社長と一緒に、風呂にはいってみたいものだと思う。だけどぼくたち現場の工員には、その機会は永遠にこないかもしれない。