連載小説・小説集「工場」から
ソフトボール
(連載第五回)
五回の表にぼくらはちょっとしたピンチだった。無死一塁と二塁で、四番バッターの馬場が大きくかまえたのだ。さきほどの打席で馬場は、センターオーバーの三塁打をはなった。体力にものをいわせ、いちばん深いところに球をたたきかえしたのだ。
いぜん郷田は、コントロールに苦しんでいた。「かわれ、かわれ」とやじられても、すなおにききいれなかった。いちどだけぼくが、「かわったろか」と声をかけた。スピードはないけれども、コントロールには自信があった。小学校六年生のとき、ちょっとしたものだったのだ。
そのことは、由美子がよく知っているはずである。ぼくたちは子供のころからいっしょだったのだ。中学校を卒業しておなじ集団就職列車で関西へやってきたのだから。
馬場は工場で大ハンマーを振りあげているような格好で、右手にかるがるとバットを振りかぶった。ぼくは腰を低くかまえた。郷田はアウトコース高目をふたつつづけた。「インコヘス低めを突け」と郷田にぼくは叫んだ。
あのでっかいチンポをねらえ、と暗示をこめたのだ。すると郷田はこちらをふりかえって、苦笑しながらめずらしく冗談をいった。「球のほうがイカれてまう、そらタマらんわ」
馬場がぼくのほうをじろっとドングリ目でにらんだ。こんどの打球は、どうやらぼくのほうに向かってきそうな気がした。馬場がインコース低目をはげしくたたき、ファーストベースへ走った。そらみろ、早い打球がぼくに向かってきた。敵意かむかってくるといった感じだ。
ぼくは二歩ばかりまえへとびだし、胸でがっちり押さえ、そのままセカンドベースへはいってホースアウトにした。セカンドにいた原口がサードベースをめがけている。馬場は足が早い。ファーストはだめだった。ぼくはサードのマッちゃんに球をつないでダブルプレーをねらった。マッちゃんはベースにはいらず、走ってくる原口にタッチしようとした。
ところがそこでゲームがおかしな方向へむかったのだ。マッちゃんにタッチされそうになった原口は、すんでのところでくるりと身をかわし、そのままレフトの方をめがけて走りだしてしまったのだ。マッちゃんは追いかけて行った。
なにしろマッちゃんは正直な男なのだ。勤続二十七年で仲間はみんな作業長になっているのに、マッちゃんだけが平工員なのだ。若い連中がマッちゃんのようにはなりたくないという。
若いのっぽの原口が逃げる。五十歳をすぎたデブッチョのマッちゃんが、ヨイショ、ヨイショと息をきらして追いかける。ルールなどあったものでない。ぼくらは腹をかかえたうえに身をよじって笑った。二人だけのゲームがしばらくつづいた。
原口はレフトの土田を折り返し点にこちらへむかってきた。マッちゃんをけん制しながら、マラソン選手の格好をまねる。マッちゃんは追う。原口がここまでおいで、ここまでおいでとおちょくる。
マッちゃんは前のめりにのめりこんでしまいそうになりながら、いっも歯ぐそをためている黄色い出っ歯をむきだしにして追いかける。めっきり白髪のふえた灰色の髪が風にゆれてすさまじい勢いだ。
ぼくらは腰をおろして、マッちゃんの走るスピードにあわせてのろのろした拍手を送った。ありがとう、といったふうに手をあげながらマッちゃんは原口を追う。原口はバックネット裏へむかった。