連載小説・小説集「工場」から
ソフトボール
(連載第三回)
酒屋の店先は夜勤帰りの立ち飲みがむらがって、熱気がたちこめていた。なかをのぞくと、あんのじょうだ。郷田と馬場がビールをあおっていた。ふたりの大きな男にはさまれて、小がらな犬飼のうしろ姿が谷底のようだった。よう、と手をあげてぼくはかれらにちかづいていった。
「……きたきた、呑み助がきた」
馬場がにやにやしながらぼくのほうに顎をしゃくった。郷田と犬飼が、ようと手をあげた。
「おっさんよ、おまえ、朝っぱらから酒なんか飲んどったら、嫁はんに叱られるぞ」
馬場が嫌味ったらしい言いかたでぼくに減らず口をかさねた。馬場の物言いはいつもこうなのだ。誰かれかまわずに大上段からものをいう。先輩も後輩もいっしょくたで、仕事のときなど父親ほどの大先輩をつかまえて、おっさん、おまえは、などと居丈高にむかっていく。だが、長のつく職制のまえにでると話は別だ。
「……まあ、そんなにいじめるなよ」
ぼくは苦笑しながらいい、ふと馬場のこんな高慢ちきな気性も、もちもののせいかもしれないなどと考えこんでしまう。
馬場は身体も大きいし、股間のもちものもでっかい。そのせいかどうなのか、言うことなすことが妙に太っ腹で、どことなく親分肌なのだ。馬場が風呂にはいると、あそこが湯面をたたくチャポンというものすごい音がする、こういって仲間がその立派さをほめたたえる。馬場のひとをあなどるような態度や物言いは、どうやらそのあたりからきているのかもしれない。
「先輩、うがいがわりに、まあ、いっぱい……」
犬飼がコップとビールをぼくにさしだした。店の中はぼくらの製鉄工場の夜勤帰りおおかたで、ほかは近くのガラス工場の夜勤帰りだった。とりとめのない会話が店内にひびき、煙草の煙がよどんでムンムンしていた。ぼくはたばこをくわえ、外の景色をながめた。
春のやわらかい朝日にさせされた歩道を、中学生や高校生がカバンをさげて急いでいた。プラタナスの街路樹が新しい芽をふき、その濃いグリーンがぼくの目にいたいほどまぶしかった。
犬飼がビールをすすめた。ぼくはひと息にあおった。馬場と犬飼はほぼ同年配の二十五、六歳のはずだけど、ふたりは大ちがいだ。マスばっかりもしんどいさかい、たまにはおまえとこのよめはんをかせや、などとなまいきなことをすけずけいう馬場は、徹底した現実派だ。だけど犬飼はおそろしくロマンチストなのだ。
ひところは背広を着てネクタイをむすんだホワイトカラーへの転職をよく口にしていたけれど、ちかごろでは結婚のことばかりいう。結婚したらペアーの赤いエプロンをつけて、ふたりで台所仕事をしたり、掃除や洗濯をしたり、ふたりそろって買い物に行ったりしたいというのが、犬飼の目下のユメらしいのだ。そのくせいまだに女がいないのだ。昼に夜に徹夜にと三交替などしていたら、女ができるはずがないといって、顔を手のひらでおおってぼやく。
「……ソフトボールに行くんか」
郷田がぼくにきいた。ああ、とぼくはこたえた。「あんたは」ときいた。
「せっかくの指定休日やいうのに、子供みたいなことをしていられるか」
郷田はいまいましそうないいかたをした。
「寝るにはもったいないいい天気やし……」
犬飼が意味ありげないいかたをした。郷田がいった。
「わしゃ、今日と明日の休みを、夜勤の疲労回復にまとめて寝るわ。わしらは身体が資本や」
こういいながら郷田は、スルメを噛んだ奥歯に指を突っこんでシーシーとすすった。
「……帰ってもカアちゃんはおらんし、わしゃ行ってみるわ」
ぼくはいった。
由美子とぼくは結婚して三年になるけれど、まだ子供がいない。夜勤のとき、朝、ぼくが帰ると由美子がでていく。夜、由美子が帰ってくると、しばらくしてぼくがでていく。つまらなさそうな声で、行ってらっしゃい、と由美子はいう。
「カアちゃんか……」
郷田がため息まじりにいった。
ぼくと由美子がゆっくりできるのは、三交替のうちの昼間の勤務のときだけだ。朝がめっぽう早い。五時前には起きなくてはならない。それもこれも、ぼくひとりの稼ぎだけでは四苦八苦しなければならないからだ。
「……カアちゃんなあ」
郷田が虚空をみつめていった。郷田の女房もたしかパートの仕事にいっているはずだ。
「おっさん、あんた夜勤のとき、あれはどないしとんや」
馬場が右の親指を、ひとさし指と中指のあいだにまるめ、
「休日の晩に、まとめてとびかかっていくんか」
と助平ったらしいいいかたをして、ヒヒヒと笑った。
「あほ……」
ぼくはわけもなくいい、思わず苦笑した。