「連載小説」
工 場
【連載第四回】
あら、蝶よ、とって……。と女の子の甘えた声。白い蝶が海のほうから舞ってきた。男の子はジャンプしながら蝶を追う。だが蝶はしばらくふたりにじゃれついただけで、また海の方へ高く飛翔していく。すると女の子は、つまらなさそうにうつむいてしまう。
すっかり困ってしまった男の子、きょろきょろしてから、ほら、とはこべをつんでくる。女の子の帽子をぬがせ、それを黒い髪にさしてやる。まっ白いノースリーブのミニのワンピースを着た女の子のほそい肩に、男の子はかるく手をのせ、ふたりは向い合って幸福そうに笑う。
「ほら、みてみい。いよいよ本番や」と、塩屋のおっさんは唇を丹念になめた。ストリップショーでも見ているような目つきだ。
「ほんまやほんま……」と、馬渡のおっさんがあぶなっかしい格好で身をのりだす。
ぼくは海を見た。波のうねりは太陽にむかって銀色に光りつづけ、遠くの水平線はかすんでいる。どこまでが海でどこからが空なのかはっきりしない。貨物船が小さく横ぎっていくのがわかる。ふと、子供のころのことが頭にうかんだ。
母とふたり、戦争へいったきり帰ってこない父をさがして海へいったことがある。ぼくが五歳で、母が再婚していくちょっとまえのことだ。あのころの母はひじょうにまよっていたのだと思う。彼女には夫の戦死が信じられなかったのかもしれない。みると子供たちは向い合ったまま身体をよせあっている。
突然、ぼくは奇妙な衝動にかられた。ふしぎな経験だった。ケラケラ笑いながら鹿児島小原節かなにか踊りだしたいような気分、うらはらに、どこか固い巨きなものに身体ごと激しくぶつかってやりたい、というみょうに矛盾したふたつの衝動をほとんど同時におぼえたのである。
そしてそれが、ぼくの内部でめまぐるしく交錯しはじめたのだ。太陽が真上でかがやき、海も子供たちもぼんやりかすんで見えた。もしかすると、こころの平衡感覚をうしなってしまったのかもしれない。
「おーい……」と、ぼくはやにわに海にむかって叫んだ。危険な場所から、あわてて逃げだすような気分だった。
塩屋のおっさんがびっくりしてこちらを見、あほか、といい、他人の恋路をじゃますな、と馬渡のおっさんが笑いながらいうと喉を鳴らして痰をきった。ふたりとも勤続二十年をこえた平工員である。
女の子が訝しげにこちらを見ている。いまだれか人間の声がしなかった、ときょろきょろする。気のせいだろう、と男の子。あのタンクのところに誰かいるんじゃない。ふたりはのぞきこむようにこちらを眺める。ちがうよ、と男の子。あれはタンクの付属品なんだよ、人の格好をした物なんだよ。ふーん、と女の子。ふたりは寄りそったまま、こちら側の工場をながめている。
あの工場、何をつくっているのかしら、と女の子。鉄をつくっているんだって。鉄って?
うん、うん、ステンレスらしいんだ。そう、それであのタンクは? ステンレスを洗浄するのにつかわれる酸関係の貯蔵タンクじゃないのか、硫酸、硝酸、弗酸、といった順にならべてあるんじゃないか。そうみたいね、でも。でも、なんだい。うん、でもさ、工場って外からみるとなんだか刑務所みたい、内側はどうなっているのかしら……。