#ちょっと小耳に(6)

弟子たち

前回は、日本の速記方式や種類に少し触れました。

では世界は?となりますが、小耳話では日本の速記関連のものを中心にご紹介したいと思っていますので、機会があればということにしたいと思います。

 

今回は、日本の速記の生みの親である田鎖綱紀(たくさり こうき)さんの弟子たちについてです。

明治15年(1882)、田鎖綱紀さんが東京で日本傍聴筆記法の第1回講習会を開きました。講習会には、後の日本の速記界を担っていく若林玵蔵 (わかばやし かんぞう)、 林茂淳(はやし もじゅん)、酒井昇造(さかい しょうぞう)らが参加していました。

 

若林玵蔵は、明治法律学校(現在の明治大学)に学びながら講習生となり、速記習得に励みます。のちに若林玵蔵はある演説会の論争に際し速記を依頼され、その速記録が新聞紙上に公表されたことから、これが速記実務の先駆けとなりました。

また落語家の三遊亭円朝が口演した怪談牡丹燈籠を酒井昇造とともに速記し、これが言文一致小説に大きな影響を与えたと言われています。

 

林茂淳は、大日本帝国憲法の起草に参画した金子堅太郎から帝国議会での速記採用について様々な質問を受けます。金子堅太郎は欧米の議会を視察して速記者が採用されていたことを実際に現認していましたが、速記者自身に直接問いかけをして速記の採用について確信を得たかったのでしょう。金子は林からの回答を受け、帝国議会での速記者の採用を時の総理大臣山県有朋に進言したと言われています。

そして、帝国議会で速記者が活躍し、第1回目の議会から完全な会議録が残っていくことになります。

 

なお、第1回講習会には多くの参加者がありましたが、のちに速記を業とできたのは、若林、林、酒井を含めて4人だけだったそうです。

どの世界でも後継者の育成は必要ですが、育成される側も覚悟を持って鍛錬することが必要ですね。

(つづく)

 

これまでの「ちょっと小耳に」

(1)速記の始まりと今

(2)日本の速記はいつから?

(3)第1回議会からの会議録があるのは日本だけ! 

(4)日本の速記方式(前編)

(5)日本の速記方式(後編)